ツグミ団地の人々〈二人の散歩6〉

 二人はしばらく視線を合わせず、通りの別の方向を見ていた。彼はそのうち頭の芯が重くなりいつしか、うとうとしていた。

 二人はまた病院の待合室にいた。並んで座っていると軽い嗚咽の声がする。妻の方を見るとその目が涙でいっぱいになって彼の膝の上にはらはらと落ちてくるのだった。
「あんた、かわいそう。こんな病気になってしまって」
 そう言って彼の肩をやさしく撫でるのだった。
「はて、病んでいるのは妻のはずだったが」
 不審に思いつつ、妻が自分を心配してくれているのがなぜか嬉しかった。

 いきなり大きな音がして彼は、はっと目を覚ました。乗用車が大きく歩道に乗り上げている。けたたましいクラクションが拾遺で鳴っている。一瞬、これは夢の中のことか、と思えた。澄子が不安そうに自分の手を彼の手の上に重ねていた。運転手が車から降りてきた。回りに人が集まり始めている。ずいぶん長いこと眠っていたようだが、時計を見ればまだ三十分とたっていなかった。

「そろそろ、行こうか」
 二人は立ち上がった。人々は彼ら夫婦をぐいぐい押すようにして店の前に集まってくる。今や恐ろしいほどにふくれあがった群衆の波をかき分けて、彼らは交差点を横切っていた。

 デパートの手前に大きな店構えの宝石店があった。店頭に、手品師のように黒のスーツを着て白手袋をはめた男が立って傍らの装置について説明している。
 透明ガラスの中に回転盤のようなものが入っていて、それがかなりのスピードでぐるぐる回っていた。何かの実演販売のようだった。男は人々の顔に向かっていった。

「さあ、ご覧ください。ダイヤモンドは何によって削れると思いますか」 若い男は手品師のように両手を広げ思い入れたっぷりにいった。お客たちはだれもそこを離れなかった。困惑し微かに苦笑しながら見ていた。
 澄子がくすぐったいような声をあげ、彼を見上げて何事かを耳のそばで囁いた。彼は妻の背中に手をおいて自分の方に少しだけ引き寄せた。その体が固く緊張しているのがわかった。

「そう、ダイヤモンドです。ダイヤモンドでしか削れないんですよ」
 男がもったいぶった様子で一人ひとりの顔を見て言う。男が妻のほうばかり見ているように彼は思う。澄子が小さくうなずいている。まるで少女のように。少女の心は純粋無垢である。何ものにも傷付けられない。ダイヤモンドが他の石を傷付けることはあるが、自身が傷付くことはない。

「ダイヤモンドはダイヤモンドによってしか傷を付けられないのです」
 そうだろう、そうだろうという表情が、お客たちの顔の上に浮かぶ。ダイヤモンドの刃先によってダイヤの縁が徐々に削り取られていく。見つめている澄子の口から細くため息がもれた。

 見世物が終わると、二人の足はJRの駅桟橋の方に向かった。
「ああ、おもしろかった」
 澄子が言った。
「今度、買いに来ようじゃないか」
「いらないわ」
「しかし……」
「いいのよ、何にも傷つけられないものなんて、コワいわ」

 彼は遠い過去の記憶を思い出すようにしばらくぼんやりしている。
 電車に乗って数駅先で降りた。

ツグミ団地の人々〈二人の散歩5〉
ツグミ団地の人々〈二人の散歩4〉
ツグミ団地の人々〈二人の散歩3〉
ツグミ団地の人々〈二人の散歩2〉
ツグミ団地の人々〈二人の散歩1〉

by
関連記事

コメント1件

  • […]  隆史は玄関に入ろうとしてふと立ち止まり、眉間にしわを寄せバラの枝先に手をのばした。体の割に小さく丸まった指先で青い甲虫をつまみ上げ、足下に落とすと愛用の白いスニーカーの先で踏みつぶした。「悪いやつなんだ。ダニみたいなもんなんだ」 夫婦は顔を見合わせ、細くため息をつくと、息子について家の中に入っていった。 出窓から明るい日差しが差し込んでいた。その横のテーブルについて親子はぽつぽつと話を始める。主にバラの話だ。 昔は老後のことや息子の未来のことなど、もっといろいろな話をしたものだ。けれど未来はもう訪れてしまい、彼らは老後を迎えた。黄金色の老後とはいかないが人生に不足はつきものだ。ツグミ団地の人々〈二人の散歩6〉ツグミ団地の人々〈二人の散歩5〉ツグミ団地の人々〈二人の散歩4〉ツグミ団地の人々〈二人の散歩3〉ツグミ団地の人々〈二人の散歩2〉ツグミ団地の人々〈二人の散歩1〉 […]

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です