抜け道 (3)
その朝も十時に玄関の戸が開いて、遠藤菊子がやってきた。彼は立つのが面倒なので、勝手に上がってもらうことにしている。
八畳と六畳の座敷、茶の間、奥の四畳半などにざっと掃除機をかけると、遠藤菊子は水を入れたバケツを縁側に進んだ。板敷きにちょぼちょぼ雑巾がけするかと思うと、ヤツデが葉を広げたあたりに、小さくしゃがんで妙な声で演歌などうたっている。
彼が構わないので、この時季咲いているのは山梔子くらいのものだが、庭先にはむせかえるような匂いが立ちこめている。
彼は急に立ち上がり、座敷へ向かった。帽子を取って戻ってくると、
「おでかけですか」
遠藤菊子はしゃがんだまま彼を見上げ、
「むかしの男の方は、ほんとうに風格がありますわね」
ほれぼれとした様子でいった。
「ああ、そうでした」何か思い出したようだ。
「今朝は、ご飯を召し上がりましたか」
彼は玄関に向かいかけていた脚を止めて、振り向いた。
「電気釜はもっと小さい方がおよろしいですよ。あれでは、男の方の一人住まいには、ちっとばかり大きすぎますわ。ご飯が、中釜にこびりついて、かちかちになるのは、そのせいですよ。洗う手間がかからないほうがいいですよ。毎日のことですからね」
夕食のための米を研いで、釜に仕掛けるまでやってもらうのだが、たぶん洗うのが面倒なのだろう。
「いいですよ。僕が自分でやるから」
「あら、最初に決めたことですから、途中で変えたりしませんよ。そんなことをすると、あれはやる、これはやらないということになって、いちいち面倒ですからね」
遠藤菊子はそれだけいうと、顔を下に向けてせわしなく雑巾を使い始めた。
「ちょっと出かけてきます」
彼はその丸まった背中に声をかけて、家を出た。
玄関の戸を後ろ手に閉めると、頭にハンチングを乗せて歩き出した。
彼は中背だが肩幅は広く、がっしりした体格だ。背をすっと伸ばして歩いているところはなかなか威厳がある。薄茶のハンチングは彼の頭にちょうどいい大きさだ。二十年来かぶり続けているので、今や彼の頭の一部に見えるくらいだ。
耳の後ろに、白髪混じりの髪がわずかにのぞき、後ろに回れば、それが後頭部から上方に向かって、次第に消えかけているのが見て取れるだろう。
彼はそれを大して気に病んではいなかった。
彼が密かに恥じているのは、露出した頭皮がつやつやと光沢を帯び、頭頂部でいくぶん尖ってさえ見えることであった。彼はそれを気にしていた。
そんな気持ちをだれにも知られたくなかったから、道で人に出くわすとかえってひょいと帽子を持ち上げ、気軽にあいさつさえした。その秘密を彼は一人、墓場までも持っていくつもりだ。
けれど客観的にはどう見ても、彼は恰幅のいい鷹揚なひとりの老人であった。ズボンはたっぷりとして、ほぼ均一の太さで腹から脚、かかとまで覆い、それを使い込んだ細身の黒い皮のベルトで、しっかりと腹に留めている。
緩い坂道を、まとわりつくズボンの裾を蹴りながら彼は歩いていった。生地が擦れて、しゅしゅっと音をさせる。裾から夏の初めの朝の冷涼な空気が入り込む。彼は愉快になってどんどん下る。
ふと、どこかで聞いた「転がるわたし」という文句が浮かんできて、ふくらんだ腹のあたりを見下ろし、彼はますます愉快になって、コロガルワタシコロガルワタシといいながら歩いていく。
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