ツグミ団地の人々〈二人の散歩3〉

 朝食の途中で彼は台所に行って薬缶を火にかけた。
 一時、安全のためにIHヒーターにしたのだが、炎が出ないのが心許なく、また元のガステーブルに戻したのだ。けれど、やはり失敗が多く、昨日も煮物を吹きこぼした。
 澄子がすぐに飛んできて、後ろからのぞき込んでいたっけ。何かいうかと思ったが、肩をすくめただけで元の場所に戻っていった。

 洋間の隅に置いてある電気ごたつの前、そこが澄子の定位置である。妻はそこで座椅子にもたれ、洗濯カゴをかかえて目の前を横切る夫を観察し続ける。
「そんなに見るなよ」
 彼は数十年続く商店の二代目のような穏やかそうな顔だが、実は内心短気な男だった。それに独占欲も強く、若いときには妻が外出するのを好まなかった。
 定年退職後、家にいるようになると鬱陶しいのか、澄子は何かと彼に散歩に行くように勧めたり、行き先も言わずに外出して二時間も帰ってこなかったりした。彼も終日家にいることでだんだん心も狭くなって、相手の年も考えず男と会っているのではないか、などつまらない妄想を浮かべたりもした。

 ある夕方、スーパーに買い物に行くと出たまま、数時間も戻って来ない。心配して探しにいくと、公園のベンチに座って、鳩がエサをついばんでいるのをじっと見つめている。
「買い物はどうした」
 彼が聞くと、怪訝そうに見つめて言った。
「買い物ってなんのこと。あたしはここで、ずっとあんたを待ってたんだ」
 そして来るのが遅いと逆に彼をなじる始末だった。だから彼も、そんなことになってたんだったかな、と記憶をまさぐる始末だった。
 けれどその数日後、帰り道がわからなくなって商店街のあたりを彷徨っていたのをく所の主婦が見つけ連れ帰ってくれた。

 病院に連れて行き、アルツハイマーと診断された。それが二年前のことだった。
「薬は、二年目ぐらいから効かなくなりますよ」
 そう言われたが、急激にひどくなることもないかわり良くなる様子もない。妻の中では時計も針を止めたのか、白髪の進む彼と比べて不釣り合いなほど若く見える。入浴後など、入念に爪を切り、薄くなった頭髪に椿オイルなどをつけて撫でつけている夫の様子を興味深げに見守っている。

 新婚後間もなく、郊外の駅から歩いて二十分という、この高層団地内の3LDKの部屋を買った。六階のベランダからは数キロ先に微かに海岸線が見え、そんなところも気に入った。
 近所には夫婦と同じ年齢層の家庭が多く、皆いっせいに子を持ち、育てた。夫婦にも男の子が一人あった。
 夫婦には子供が一人だけだったので、子どもの情操教育に良いだろうと、ちょうど幼稚園へ入る頃に兎を飼った。アンゴラとミニロップという耳の垂れた兎だ。やがて一羽はカラスにかまわれて後ろ脚を折り、手術にたいそう金が掛かった。もう一羽はすぐに歯が伸びてエサを食べられなくなるので、月に一度は獣医師のところに行き、のこぎりで引いてもらわねばならなかった。

 息子の隆が抱いているとすぐに粗相し、庭に生え始めた草花の新芽を食べてしまう。それでも隆は怒るということをせず、
「ちょっとは、いうこときいてくれよ」
 兎の顔をのぞき込むようにして頼んでいた。
「あの子はやさしいのよ」妻はしみじみと言った。
「それで損してるのよ」
「そうだな」彼は頷いた。

ツグミ団地の人々〈二人の散歩2〉
ツグミ団地の人々〈二人の散歩1〉

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