ツグミ団地の人々〈二人の散歩5〉

病院はターミナル駅と直結している。ホームから歩いていくと、いつの間にか病院の受付の前に来ているのだ。
 待合室には、多くの老人たちがいた。ほとんど老人だらけだった。皆、あきらめたような、しかしどこか強い執着を残したような目で通る人々をながめていた。まるでムクロジの実のようだ。彼は思わず老人たちから目を逸らした。
 老人と言っても、よく考えればそれほどの年の差はない。人から見れば、彼もまた一人の老人に過ぎないのだ。

 診察カードを出すと空いた席を見つけ、隣の人に詰めてもらってどうにか二人分の席を確保する。澄子は待っていることができず、時計の秒針を見上げては、ため息をつく。その間隔はだんだん間を狭め、いらいらした気配を感じて息苦しい。
 ついに妻の名が呼ばれた。一緒に立ち上がり、体をささえようとすると、邪険に彼の手を振り払い強い口調で言った。
「あなたは、ここにいなさい」
 彼は浮かしかけていた腰を降ろし、照れたような笑みを浮かべると横にあった新聞を広げて読み始めた。

 妻が診察室から出てくると、交代で彼が呼ばれて医者に話を聞いた。経過がいいのかと淡い期待を抱いたが、医者は難しそうな顔で首を振るばかりだ。
「もう少し、薬の量を増やしましょう」
 うなずくしかなかった。

 暗たんたる気持ちになって診察室を出ると、待合室で待っていた妻が彼を見て言った。
「あんたは、なんでいつも暗い顔してるの。もっと笑いなさいよ」
「そうだな」彼は口元を少しゆるめた。
「そうよ、そんな風にしてたほうがずっといいわよ」

 会計を済ませると時刻はすでに昼近くだ。
 病院を出ると彼らの足は自然に駅ではなく、立体交差の下のショッピングモールに向かった。妻が行きたがったお茶屋の一軒は休みで、もう一軒のほうはどうしても見つけることができなかった。
 さんざん街の中を歩き回り二人は疲れ果てて、赤い庇が店の前を覆う洋食屋に入った。中が満員だったので屋外のテーブルに席を取った。テント地の端が完全に留まってないのか、風にあおられ頭の上でぱたぱたと翻る。

 サンドイッチとコーヒーで遅い昼食をとった。彼は早々に食べ終えると通りをぼんやりながめていた。
「おいしいわ」
 妻は指でパンをつまみゆっくり口に含んで食べている。
忙しそうに歩く人々が夫婦に注意を向けることはない。だれもが傍らをせかせかと急ぎ足で過ぎていく。彼らを一顧だにしない。彼は急に寂しくなった。まるで自分たち二人はすでに、この世にいないかのようではないか。

 澄江は食べ終えるとレースの付いた白いタオル地のハンカチで口をぬぐいそのまま目を閉じて動かなくなる。首ががくりと後ろに倒れる。昼食がすむと寝てしまうのがいつものことなのだ。
 急激に眠りに落ちていくさまを目にすると、いつもながらどきりとする。庇の赤が閉じた瞼の上にゆらゆらと不吉な影を落としている。見ているうちに通りを行く人の姿がぼやけていき、やがて彼の頭ももうろうとしてくる。

 傍らのテーブルに若い主婦らしい二人連れの女たちがいた。一人は子連れで、遠慮もなく子供をテーブルの上に立たせ片手で押さえながら話している。もう一人はその友人ででもあるようだ。
 女たちの声が耳元で虫の羽音のように心地よく響いている。赤ん坊がグルグルとくぐもった声で笑った。赤ん坊は顔を反り返らせて笑いつづけている。

「かわいい・・・・・・」
 年下の娘が言った。彼女のお腹は大きく、間違いなく2、3か月後には生まれそうだった。
「あんた子ども好きなのね」
年上のほうが、やさしい声で言った。

「わからない。あまり接したことないから」
「赤ちゃん、たいへんだけど、可愛いよ。だけど、うちの子ちょっと成長が遅いみたいなの。検診でいわれたんだ」
「小さくたっていいよ。かわいいから」
「そう、そうよね」
 もう一人が大きくうなずいた。

「生活楽も楽じゃないの。うち給料安いから」
「でもいいよ。こんなかわいい子がいるんだから。うちなんてシッソウしちゃって、もうすぐ産まれるっていうのに」
 年下の娘が吐き捨てるように言った。
 失踪、の言葉に彼は驚いて顔をあげる。

「もう、仕事やめなよ。体に悪いよ」
 年上のほうが心配そうに言った。顔がよく似ているから姉妹なのかもしれない。
 ふ、ふ、ふと赤ん坊の声が小さくもれ、やがて大きな声で泣き始めた。
 女たちは慌てて立ち上がると、一人が赤ん坊を抱き、もう一人がベビーカーを押して人混みの方に向かって歩いて行った。
 彼らは一度も夫婦のほうに目を向けることはなかった。彼は、その妊娠した娘が自分に相談してくれればいいのに、と思った。何も話しかけないのは理不尽だ。いや、そのお腹の中の子が自分たちの孫だったらな、とさえ思い、そうなったら娘と赤ん坊を、どんなに大切に思い守ろうとするだろう。

 しかし現実には、あの女たちは一度としてこちらを見なかった。彼も妻も二人ながら、この世の中から見捨てられた存在なのだ。
 機嫌を直した赤ん坊の、小さな笑い声が遠ざかっていった。

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