ツグミ団地の人々〈立春前 10〉
帰るのを引き延ばしているうちに、やがて食事の運ばれてくる時刻になった。
廊下に行って盆を取ってくると、麻紀さんのベッドの上に棚をスライドさせその上に盆を乗せた。
麻紀さんはほんの少ししか口にしなかった。
「もういいわ」
「もっと食べないと、体力がつかないわよ」
「そうかしら」
母親に叱られた子供のように、箸を持ったまま里子を見上げた。
「あたしは好き嫌いが多いから、こんなところに入ると大変なのよ」
そうでしょ、そうでしょ、と里子は思う。冷や奴は、嫌いな小口切りのネギを脇によせ、気持ち箸をつけただけ。キャベツやニンジンやセロリのスープ煮にいたっては、器に鼻をつけてちょっとにおいを嗅いだだけで、わきに押しやってしまった。
そういえばお嬢さん育ちの麻紀さんの口癖は、「こんなのちっとも、美味しくないわ」だった。麻紀さんが発病してあまり動けなくなってから、里子が作って持っていった煮物なども、だいたいが、
「おかずはいっぱいあるから、あとでいただくわ」
そう言って冷蔵庫にしまい込まれ、その日の食卓に並ぶことはなかったようだ。ひょっとして自分が帰った後、ゴミ箱に捨てていうるのではないかと思ったほどだ。
「もうたくさん」
「じゃ、お茶いれるわね」
ベッドの上の台を静かに足下のほうに移動させた。
「ベッドも元のように平にするわよ」
「ああ、疲れた。座ってるだけでも大変なの。やっぱり、横になってるのが楽ね」
麻紀さんは、手を腰のあたりに持っていってなでるようにした。
「どうしたの」
「なんだかね、このあたりに床ずれができ始めてるみたいなの」
「え」
里子は、ギョッとして腰の辺りに顔を向けた。
「どうする。少し体の位置を変えましょうか」
「じゃあ、ちょっとだけ」
腰のあたりをさわると、麻紀さんは驚くくらいやせていた。肉親ではないけれど他人の体でもない気がする。それを腕で下からそろそろと持ち上げたけれど、やはり痩せた麻紀さんの体がこわい。「もう、これくらいにしましょうね。どう?」
「少し、いいようよ」
頭を斜めにして、麻紀さんは、ぼんやりと窓に目をやった。すでに沈んでしまった陽の残照が民家の屋根屋根に鈍く照り返していた。
最中を向けたまま麻紀さんがいった。
「ねえ、聞えたでしょう、あの声」
「ああ、聞えた気がする。だれか女の人の声」
里子がそう言ったのは、麻紀さんに合わせるためだけでなく、なんだか本当に聞えたように思ったからだ。
「でしょう。ね、どんな声だった。若い女の子でしょう」
「そうね、たぶん、若い女の人の声だったと思うわ」
ほとんど共犯者のような気持ちになって里子は言った。
「そうなのよお」
息を吸いながら麻紀さんは言う。胸が大きく波打っている。
その時、カチャリと音がして二人はハッとして振り返った。ドアが開いて、 そこに眉の濃い、がっしりした体格の男性が立っていた。薄手のコートをはおり手には黒いソフト帽を抱えている。
「あ、どなたですか」
男の人は低い咎めるような声で言った。麻紀さんの夫だ。いつか、二人で連れ立って歩いているのを見かけたことがある。
「内村里子さんよ。隣の棟の」
麻紀さんは少しバツが悪そうに言う。
「そうだったんですか」
「食事のときも助けてくれたのよ」
「ありがとうございます。でも、あとは僕がやりますから」
「はい、わかりました。今日は、麻紀さんの顔が見られてよかったです」
「すみません。ありがとうございます」麻紀さんの夫は慇懃そうに何度か頭を下げた。
そうして里子は病室をあとにしたのだ。