抜け道 (21)
――こう、うまくいってくれればいいのだが。
彼はふいに、俺は死んだのだ、と人々に触れて回らなければすまない気持ちになった。彼は孤独だけれど、生きているときは(・・・・・・実際、まだ生きているが)、多少はユーモアのセンスもあり、困った事態に陥ると、なぜか笑ってしまうクセがあった。
そして、彼は思う。そういう時に笑ってしまう人間というのは、「自ら悲惨さを招き寄せているようなもの」なのだと。母親は、彼が子供のころ、顔をしげしげと見ながらいったものだった。
「男の子なら笑っちゃいけないよ。しっかり口を閉じてるもんだ」
「兄貴、少し融通してくれないか」
ある日曜の夕方、弟は急にオートバイを家の角口に乗りつけて、出てきた彼に向かっていった。
彼は一瞬むっとしたがすぐにそれを抑えて笑い、いくら入用なのかと聞いた。その全額を、数日後に口座に振り込むと、彼は約束した。弟は、夕食はいらないといった。
母親の勧めもあり、送りがてら三人で川沿いの道を歩いていった。冬になる少し前の秋の深まる時季で、弟はオートバイを押し、妻の両脇を兄弟二入が挟むような格好になった。片側の畑の畝に大根や蕪の葉が、黄色く乾いていた。
このあたりで川は、蛇行せずゆったり流れている。川沿いの道もまっすぐで、弟が戦前バイクで転倒したのはこの少し先のあたりだ。
「もうオートバイを乗り回す年でもあるまいに」
弟の横顔に、彼はふいに嘲る口調でいった。
「いいんだ、そんなのは」
弟はぶっきらぼうにいった。
振り向くと、妻は片方の手をバイクのハンドルに掛け、もう一方の手でその光り具合を確かめるように、しきりと金属部分を指でこすっている。それに熱中し、彼が見ているのも気づかないほどだった。
川面に夕日が反射していた。穏やかな流れの先に、陽の当たらない暗い流れがどくどくと先を急ぎ、陰に沈む川堤のあたりで小さく波頭を砕けさせていた。スゲの櫛のように疎らに、林の木々が梢を風の吹いていく方向に伸ばし、その先で川はぷっつりと視界から消えている。
もう少し上流では川幅は狭まり、いくつかに枝分かれし、林の奥に分け入って、彼ら兄弟はそういった流れのひとつで釣りを楽しんだものだった。山間から流れ出てくる川は、まだ澄んでいて、けっこういろいろな種類の魚が釣れたものだった。
弟は釣りが巧かった。本来せっかちな性分なのだが、釣りに関しては気配を殺して、何時間でも食いつくのを待っていることができた。のんびりした彼のほうが逆に焦って竿を上げては、何度も逃げられていた。
弟は釣り糸を手許に引き寄せ、巧みな手つきで魚を釣り竿から外した。川の水を入れたバケツに放しておくと、間もなく弱って、口の横からエラのあたりまで煮こごりのような血をつけた。彼はそれを見るのがイヤであった。
弟は、釣ったものはもう省りみなかった。またすぐに場所を変えて、釣り糸を垂れた。
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