ツグミ団地の人々 〈レモンパイレディ 3 〉

 数ヶ月後、僕らはツグミ団地に引っ越してきた。
 
荷物は当日、大方運び込まれたがそれからが大変だった。夕方過ぎまで僕らは働き続けた。この団地は木が多すぎる。海の中の離れ小島のように、森の中にぽつんぽつんと建物が建っているようだ。
そのどの建物も木々の屹立した間に建つ離れ小島のように思えた。夕方になるとそれぞれが、ベランダの奥に白熱灯や蛍光灯のあかりを寂しく灯しはじめた。
 
引っ越し荷物が部屋のまん中に高く積まれ、僕らはその周りの空いたスペースに荷物を囲むように丸くなって寝た。

 隣の岡田さんに初めて会ったのは翌々日の朝だった。
 僕はそのとき、スニーカーと猫のくるみと格闘していた。
 半分顔を入れて下駄箱のなかをごそごそかき回していたが、引っ越し荷物の整理のときにあまりにも無造作に放り込んだので、どこにあるのかわからなくなっていた。下駄箱の下のたたきの隅にあるのを見つけ手をのばした途端に、2歳になる猫のくるみがすごいスピードで突進してきて靴に飛びかかった。
「ほらほら、何してるの。学校に遅れるわよ」
 母さんは僕たちにかまわずドアを勢いよく開けた。
 するとドアすれすれに人が立っていて、あやうく体ぶつかるところだった。
「あら、あぶないわ」
 その人は体をのけぞらせて言った。50歳か60歳くらいのおばさんで、やせて小柄なのに髪の毛だけがちりちりとしてふくらんでいる。

 母さんが息を呑んで見つめる。
「す、すみませんでした。大丈夫でしたか」
「どうにか。あわててよけましたから。でも急にドアが開くなんてね、びっくりしましたよ」
「本当にごめんなさい」母さんが恐縮して言った。
「それにしても何をなさってたんですか」

「ご覧のとおり、掃除ですよ」
 おばさんはそう言って、下を向いてせっせと箒を動かし始める。
何にしろ、4時から起きてるから家の中のことは、ぜんぶ済んでしまったの」
 おばさんは手にしっかりと箒をにぎったまま、首を伸ばして僕の家の中をのぞき込むようにする。
「こちらは・・・結構ですから。あたしがあとでしますから」
 
 まるで耳に入らないように、おばさんは下を向いて箒を動かし続ける。
 あとで分かったことだけど、おばさんはとても働き者で、毎朝その時刻に廊下の掃き掃除ををするのだ。
「いやねえ、嫌みでやってるんだわ」
 母さんが父さんに向かって言った。
「別にいいじゃないか、きれいになるんだから」
 父さんは新聞から少しだけ顔を上げて言った。
「男のひとって、なぜそんな割り切った考えなのかしら。ふつうよその家の前を掃いたりはしないものよ。だってうちの領分ですもの。それが礼儀ってものでしょう」

 ところでこの棟のつくりだが、1フロアが8戸に分かれていて、まん中の4戸が前にせり出し、鳥の両翼のように少し下がって2件ずつが左右についている。ツグミ団地では結構珍しいつくりだった。これはとても合理的に思え、父さんは感心したように言った。
「同じ階の家が日ざしを分け合えるってことだよな」
けれど便利なことばかりでもないのが少ししてわかった。
 僕らの家はちょうど鳥本体の右翼の付け根の部分にあり、隣の岡田さんちが前にせり出ている。ちょうどあちらの家のベランダからこちらがのぞける形だ。
 母が洗濯物を干しているときはもちろん、掃除機をかけたりしていて、少し手を休めて振り向くとベランダの向こうからじっと岡田さんがこちらを見ているのだという。

 
 僕らが引っ越してから、岡田さんの楽しみは僕ら一家を観察することになった。母さんがそう言うんだから間違いない。
 岡田さんの家に、だれかが来るということはまずない。
 たまにチャイムが鳴るとだいたいが訪問販売の人だ。インターホン越しに、「いらないよ」とつっけんどんな声が聞こえてくる。

僕が学校へ行こうと廊下を走っていくと、「いってらっしゃい」とわれ鐘のような声がいきなり右側から聞こえ、ぴくりとふり向くと通路に面した窓の、泥棒よけの柵の向こうに岡田さんの少しくぼんだ丸い大きな目があって、じっとこちらを見ている。

「いつも早いね。気をつけていってらっしゃい」
 言葉に書けばやさしいが、岡田さんはこれをにこりともせずに言うのだ。髪にはちりちりにパーマがかかっていて、四角に見える顔は大きい。笑わない目がまばたきもせずにこちらに向けられている。

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