抜け道 (15)

 それからはセールスマンにも近所の主婦たちにも、家にやって来た人間には残らず鉢植えの花を渡した。強引とも思えるほどに、あるときは必死の顔つきで。人々は微笑や困惑やらを顔に浮かべある者は馬鹿にしきった顔つきで、それを受け取った。

 花は全部なくなった。その世妻は布団の横に座り、うなだれて泣いた。彼は妻の体を抱きしめた。その細い体は、まるで人形のように力がなかった。
 真っ白に白粉をぬりたくった顔、あれは母親だったのか妻だったのか。彼にはもう区別することができない。

 その頃、彼の家からは、土手の後ろに沈んでいく夕日を見ることができた。ある日曜の夕方、彼が湯船につかっていると、外から妻の声が聞こえてきた。何をしてるんだろう。首を伸ばして裏庭のほうを覗いた。

 低い生け垣の先が原っぱで、その先に川の土手が広がっている。ちょうど紫苑の咲く時分で、風に吹かれて茎の先端を一斉に揺らしていた。
 紫苑はそばで見ると茎の高さの割に堂と言うこともない花だが、少し離れたところからは、大きな塊になって夕方の野をさまよっているように見える。

 その時、紫苑の花の間に妻の小さな顔が覗いた。茂みのをゆらゆらと歩いている。口の中で何かつぶやき、手を伸ばして花を無造作につかんでは、また引っ込める。姿が隠れるかと思うとまた現れる。

 いつしか夕暮れの野原の中にその細い体が紫色に溶け出し、まるで花の間で溺れているように見える。それをまるで他人のように見つめる彼がいた。

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