ツグミ団地の人々〈立春前 2〉
その朝、里子はおろし立てのタオルをベランダから落としてしまった。
主婦の一日の気分は、だいたい洗濯物を干し終えるまでに決まる。がっかりしてエレベーターで下におり植え込みのあたりを探していると、冬にはめずらしいやわらかな日がシャリンバイの上にさしていて、季節のゆるやかな変化のきざしを感じて目を細めた。
ざっと化粧をすませ、玄関を出たのは昼前だった。今向かっているのは、直線距離にしてたった二百数十メートル。けれど里子が住んでいるツグミ団地は高層集合住宅だから、移動するのは平面の長さばかりではない。八階からエレベーターを使って一階へ、次に二百数十メートルを徒歩でかせぎ、目当ての建物に着けばまた吊り下げ機械のお世話になる。
十階でおりて廊下を歩き、ドアのインターホンを押す。いつものように返事はない。ノブをにぎるとドアは苦もなく開いて、麻紀さんが奧から、「どうぞ、はいってー」と声をかける。
艶のあるビロード生地のような声だ。まるで歌っているといっていいくらい。音楽のプロなら、たちまち五線紙の上にその音を書きとどめるだろう。
里子はきれいな声の同性が好きだ。それも少し低めで豊かな声の人がいい。麻紀さんはもと舞台女優なので、訓練された豊かさだ。もう六十歳を過ぎているが、その声はおとろえていない。それに麻紀さん、お姉さん、母親の三人がそろって故郷の裏日本の街を歩いていると、みんながふり返って見るくらいの美人親娘だったそうだ。
麻紀さんは玄関に姿を見せることはない。ただ、入ってくるのをお持ちしていましたというように、ポーチライトが弱く灯っている。明かりの下に、マリアが血を流した裸体のキリストを抱き悲嘆にくれる小さな絵がうかびあがっている。イタリアの宗教画で麻紀さんの好きな画家のものだ。里子はその名を何度聞いても忘れてしまう。
「遠慮なく」
口の中でもごもごいって靴を脱ぎ家の中へ入っていく。
「玄関の照明は消すの?」
「どうしようかしら……。消してくださる」
「わかったわ」
もどってくると、後ろからテーブルに皿を並べる麻紀さんの手元をのぞきこむ。
「お構いなく」
「何もないのよ。ちょっと前に、バナナケーキを急いで買ってきたところ」
「いってくれれば、あたしが行ったのに」
「さっき薬を飲んだから、今はだいじょうぶなの。バナナケーキ、主人が好物なのよ。でも一個じゃ多すぎるから、半分でいいわね」
「もちろんよ」
「ねえ、レモンティとホットチョコレートとどっちがいい」
「レモンティいただきます」
「じゃあ、あたしも同じものにするわね。カップ、取ってくださる」
里子はテーブルの横にある食器戸棚のガラス戸を開ける。
「この花の柄きれい」
「チューリップよ。あなた、それにするの? あたしも大好き」
麻紀さんはテーブルの上の大きな缶のふたを開け、レモンティの粉末を大匙でざくざくとすくってカップに入れる。粉の中にレモンも砂糖も入っているすぐれものなのだ。
テーブルの上には、紅茶、ホットレモン、チョコレートドリンクの大型缶や、佃煮、青梅、紫蘇漬け生姜などのビンが所狭しと並び、お茶や、簡単な食事の用意は大方できるようになっている。麻紀さんはカップを両手で慎重にもち、そろそろと電気ポットのほうに近づいていく。
「あ、あたしがやるわ」
「だいじょうぶよ。これ受け取ってくださる?」
「はい。ありがとう」
黄色いチューリップの向こうから、ゆらゆらと湯気がたちのぼっている。
「部屋の中に春がきたみたいだわ」
「ほーんとうね」
麻紀さんの口調がまた歌うようになる。ベランダの日差しがまぶしい。窓の先に海岸線が小さく見える。海は不機嫌にうねって光を細かく反射させている。