ツグミ団地の人々〈立春前1〉

「変なのよ、あの棟に夜行くと、必ずエレベーターホールで人に会うの
 里子はぼやくともなく言った。
 息子の健太が新聞紙の上からチラッと顔を上げて視線を向ける。新聞は読んでいるのではなく、その上につくりかけの帆船の模型が乗っている。市内の帆船同好会のようなもの入っていて、今はマストのところにかかっていて、それに集中している。あまり聞いているようには見えないが構わず里子は話し続ける。

 「この前なんて、細い縞柄のスーツを着た初老の男の人が、ホールのまんなんかに新聞を広げて立っていたの。わざわざ、夜更けに新聞を広げて読んでなくてもいいと思わない。もう十時を過ぎてるのよ」
 「ほんとうに人間なのかな」
 健太が指先でマストの形を整えながら、ぽつんとつぶやく。
「え」、里子はふいをつかれて言った。
「どういうこと」
「さあ」
 眠たそうな眼が再びマストの上に集中する。

 里子は、夜な夜な、団地の中で広告のチラシ配りをしている。昼間は近くの不動産会社で経理のパートをしている。けれどそれだけでは収入が足りないので、ツグミ団地内で家庭用浄水器の広告を配っているのだ。
 月に1回、販売担当の男が段ボールに入れてかついでくる。それを玄関の下駄箱横に積んでおいて、時間のあるときに少しずつ配る。本当は、休日の昼に配りたいのだが、ついつい忙しかったり億劫だったりで延び延びになり、月末近くになって慌てて配り出すのだ。
 昼や、夕方か、せめて夜半過ぎには終わりにしようと思っているのだが、ついつい気が急いて無理して夜中までメールボックスに配布を続けていることもある。

 健太は勘が良くて、母親の考えを見透かすようなところがある。
 先日は急に聞かれた。
「お父さんは、いつ戻ってくるの」
 夫の春樹は、七年前から関西の都市に単身赴任中である。
「わからない」
 と里子は首を振る。それ以上聞いてはこない。なぜかそう聞かれる度に、家の居心地悪さが夫を遠ざけているような気持ちになってしまう。

「ふーん」
 疑い深そうな大きな目が、一瞬里子を見つめ、すぐに手元の科学雑誌のほうに伏せられる。ひゅうと風がうなり冊子のガラスに雨が激しく打ち付けていく。

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