ツグミ団地の人々 〈小鳥が逃げた 3〉
前を歩く男の傘からぽたぽたと雫が落ちていく。バス券の自動販売機が白い明かりを漏らし、細かい霧状の雨が周囲の闇に次々と吸い込まれていく。
「ちょっと待って」
美佐子は立ち止まり、手提げ袋から財布を取り出すと、中を調べて千円札を5枚抜き取る。五千円分並べて入れると一度吸い込んだがすぐにきしむような音をさせ、札を全部吐き出した
「こんなまずいもの食べられるかって、言ってるみたいね」
「そろえて入れないとダメだよ」
奈々が重ねて丁寧に入れる。機械がクイッと飲み込んで、たちまち5千円のカードをぽとりと吐き出したポケットにしまい込み、親子はまた並んで歩き出す。
家までは五分ほど。信号なしの道路を急いで渡ると、かすかに潮風が吹いてきて頬を撫でていった。片側に高い岩のような棟が四つ。その陰に身を寄せるように歩いていく。ピロティの光が外に漏れ出し、暗い茂みの横に、中学生くらいの少年がうずくまっている。
いきなり、「ふざけんなよー、うるせえ」という声がして振り向けば、中学生くらいの少年が携帯電話で誰かと話しているのだった。
美佐子は、くっくと笑う。
「おどろいた、誰かを脅かしているのかと思ったわ」
棟の壁面に当たって、声にはエコーがかかり、雨が光の筋のように空から少年の頭 の上に降り注いでいる。声はまるで見えない誰かを永遠になだめ続けているようだった。
「クラスの男子なんだけど、この前、初めて携帯電話を買った子がいるんだよ」
母親は立ち止まり娘の方を見る。
「それでね。その子、誰からもかかってこないんだよ」
母親がびっくりして娘の顔を見つめる。
「夜はいつも机の上に乗せてるんだって。すぐ取れるように」
「ふーん」
植え込みのキンポウゲから刺激臭が雨に濡れて立ち上がってくる。
「この前、クラスの男子たちが、『みんなであいつのとこに、かけないようにしよう。ぜ』って」
「悪趣味ね」
「アクシュミ? あ、そう。すごく悪趣味なの」
二人はもうエレベーターの前に来ていた。呼び出しボタンを押すと、壁の掲示板に張られたさまざまな告知やお知らせに目をやりながらエレベーターが下降してくるのを待った。刻々と移動する表示ランプを見上げる奈々の目が疲れて大きく見える。
奈々の夕食の時間はいつも遅い。電子レンジは一人分だけの皿を温めながらゆっくり回転を始める。息切れもせず、不平も言わず、忠実に自分の仕事をやり続ける。
美佐子はグラタン皿を取り出すと奈々のすわる前に置いた。
「便利でしょう」
奈々は母親を見て、重々しくうなずいた。
「世界史の授業で先生が言ってたよ」
「なんて?」
今の人間の生活は便利だけど、失ったものも大きいって。
「たとえば?」(人間性かな、それとも自然?)
「たとえば・・・・・・・視力」
「視力ですって」母親は絶句した。
「猿に近いころの原始人は、視力が七・〇くらいあったんだって。
「七・〇・・・・・・嘘でしょう?」
「嘘じゃないよ。どこかの洞窟にそのころの鹿の絵があるんだって」
(ラスコの洞窟?)
「動いてる時の足の曲げ方とか、今その映像をスローモーションで見た時の形とまるで同じなんだって。走ってる時は速すぎて、見えないはずなのに」
「でも見えすぎるのって、あまりいいとは思えないわね」
「そんなことないよ、何でも見えたらすごくいいと思うよ」
「たとえばライオンに襲われたとして口を大きく開けた。顔がゆっくりゆっくり近づいてくるところ想像してごらんなさいよ。怖くない?」
母親はわざとらしく怖い顔をつくって言う。
「たしかかにコワいね。でも、どうせ食べられちゃうんじゃ同じでしょ?」
奈々は急に投げやりになって言う。それからグラタン皿の上に顔を伏せて食べ始めた。
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