玉木屋の女房 〈14〉

 多江はあれから耕書堂に一度も行っていない。また店の奥で、背中をまげて蔦重さんと次の役者絵の相談でもしているかもしれない。きっと、店のみんなにもちやほやされているのだろう。

 ゆらに頼まれて近所に届け物をしたあと、急ぎ足で帰る途中で、川のそばを歩いているあの男の姿を見つけた。斎藤十郎兵衛といっていいのか写楽というのがいいのか多江にはわからない。体が前よりも小さくなって、背中はいつもより、よけに曲っているように見えた。
「なあんだ、そんなところで、どうしてるの」
 そう声をかけたのは、なんだか放っておけないように感じたからだ。十郎兵衛どのは、ハッとしたように顔を上げ、多江の姿を見つけるとなぜか急に余裕を出すようにふふふと笑っていった。
「あたしが、てくてく歩いてるところをずっと見てたんですかい」

「はい、見てました」
「まあ、恥ずかしいような姿を見られたんですね」
「そうでしょうか。初めて、十郎兵衛様の飾りを取り払った自然な姿を拝見したように思います」
「いつも、私は私ですよ」
「先ほどのお姿は、十郎兵衛様でも写楽でもなくて、ふわふわとどこかに行ってしまうように見えました」
「どこかって、どこへ」

「わかりません、それであたし、なかなか声がかけられなくて」
「いやだなあ、やっぱりずっと見てたってことじゃねえか」
「いえ、どこに向かわれてるのかなあ、って思って。蔦重さんの店とは反対の方向ですものね」
「いやね、こうやって川のそばを歩いていって、そのうち気が向いたら、飛び込もうって思ってね」
「え」多江は息を呑んだ。
「蔦重のところに行っても、次の絵はまだかって催促されるくらいのもので」
「蔦屋のおじさんも、早く次の絵が見たいんでしょう。うちの職人さんも、一度、大首絵を彫らせてもらいてえもんだ、って。腕が鳴るって。江戸中の人がみんな次の絵を楽しみにしてるんですよ」
「そうかい。あんなもの楽しみにされてもなあ」
 写楽はつまらなそうにいった。

「それにでえいち、いくらいわれたってもう描けねえんだ。あれでもうおしまいさ」
 どうしていいかわからない多江は、ふふふと、笑ってごまかすようにいった。
「沢山描いたから、疲れてるんですよ」
「もう、どうでもいいや。それに疲れていようが、いまいが、もう、どうでもいいってことさ。さあ、あんたはもうお帰り」
「でも・・・・・・」
「でえじょうぶだって、とびこんだりしないから、ちょっと、あんたをからかっただけだよ。あたしは本職は、役者だからね。さ、さ、もう帰りな、遅くなると家で、おっかさんが心配するだろう」
「じゃあ、約束してくださいね。変な気起こさないって」
「ああ、大丈夫さ、そんなときには、あんたに道連れ頼むから」

「え」 多江が聞き直そうとしたとき、写楽いや十郎兵衛はすでにすたすたと歩き始めていた。


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