午後のサンルーム(6)
その日の午後も、菊江たちのグループは昼食の後、3階のサンルームで時間をつぶしていた。
ガラスに囲われた動物たちのように人々は、ちょっと肩をすくめて地上を見下ろしている。
バラの葉の群れた葉陰に、桜庭老人の麦わら帽子が見える。だれもそばにいない。老人一人っきりだ。そばに近づく者がいたらきっと、バラの種類や育て方やらで小一時間も離してもらえないだろう。
彼が幸せなのかどうか、恵子はふと聞いてみたい気がした。
そのとき、廊下側のエレベーターが開いて、何人かの者たちがどやどやとサンルームに入ってきた。一人の女が少し離れたところから、こちらをじっと見ている。もう一人は、横にいる女にひそひそと何やら耳打ちしている。
「どうしたの。皆さん、おそろいで」恵子はきいた。
一人が意を決したように、近づいてきていった。
「磯野さん、事務の人があなたを探してたわよ」
「まあ、あたしを? 何かしら」
「やっぱり、まだ知らないのね。明日はお葬式が入るから和室は使えないの。だからお茶のお稽古もお休みにしてほしいって」
その一言は、その場にいた者たちを沈黙させるに十分だった。こんなとき、運命の女神が目の前であかんべえしてるのを感じる。だれだって普段、保留にしているものと、イヤでも向き合わざるを得ないときがある。
しばらく沈黙が続いたのちに恵子はきいた。
「それで亡くなったのは、どなたなの」
「佐々木シズ子さんよ」
だれかがため息をもらした。
「あんないい人がねえ」お気の毒に・・・・・・」
人々は口々にいって、それとなく菊江のほうをうかがった。まるで、菊江が何か釈明する必要があるとでもいうように。
菊江は硬い表情を浮かべたままで、何もいわない。みんな失望を顔に浮かべ、ある者は去りある者は残った。
隣りの席では、食事の献立がどうのこうのと、たわいない話をしていた。
生卵の嫌いな女が、「和食は困るのよ。ちっとも食事が進まなくて、栄養不足になりそうだわ」と嘆いた。でっぷり太ったその女は、肉や粘り気のあるものなど、ほかにも食べられないものが多いのだ。そして、紙コップのコーヒーに口をつけると、「ちっとも甘くない」と文句をいった。
菊江は口をきいていない。広くあいた窓のガラスごしに、磯野老人が動くのをただぼんやりと見ている。それから寒気でもするのか、一瞬ブルブルと体を震わせ、首に巻いたスカーフを襟元にかきよせた。
近くの席では磯野が、得意そうな顔で勧進帳の話をしている。
「○代目○○は、手に持っていた杖を落とすところでも違う。気持ちの中に突然の間隙が生まれてスーっと下がるのだ」と磯野はいった。そして、
「あなたは、どう思いますか」と隣の老女にきいた。
その女はもう少し若いころは、しょっちゅう歌舞伎を観にいっていたのだった。ずっと独身で会社勤めをして、退職後ここに入ったのだ。
「そういうのに、あたしは興味がなくて」女はいった。
この老女は入居者の男と話すとき、いつも少々恥ずかしそうにする。そして頭の上から響いてくるようなか細い声を出すのだった。
だから女の話は、頼りなげに空中をさまよい、語尾のところで自然消滅してしまう。女が結婚というものをしたことがなく、男に対して憧れめいた気持ちをもっているからでもあった。そばで見る磯野の顔は厳つく、――こういう顔を男らしいというのだろうか、と女は密かに思った。
「あたしが観るのは、○○の舞台だけなんですよ」
美男で有名な女形の名前を言った。磯野とは対称的な顔であった。
その役者の話をするとき、女の顔は少しだけ赤くなり、太った体をよじるようにした。
「それしか観ないなんてもったいないな」
相手の黒っぽい地味なみなりに、ちらっと目をやり、この女は結婚したことがないんだな、と磯野は思った。