眠り草(11)

 ここに来て10日目の朝が来た。聡子はまだだれとも親しくなっていなかった。そのほうが都合がよかった。だれとも親しく話す気にはなれないのだ。

 今朝も食堂には、老人たちがそれぞれの席に座って食事をしている。無言で食べ物を口に運ぶ老人たちを見ているといたたまれなくなった。そして、その間を動き回る若い給仕の女たちはなんて甘ったるい声で老人たちに話しかけるのだろう。まるで優しい声で彼女たちの優越を示しているように。

 聡子は数日前のことを思い出している。
 これっきりもう会えないのだと思い、姉の手を少しばかりきつく握ったものだから、姉は「やめなさいよ、痛いじゃないの」といった。その声で、遠い昔、自分たちが故郷の川のそばを歩いたある夕方のことを思い出したのだ。姉は友達と、どんどん先に行ってしまうものだから聡子は必死で追いかけていった。そして追いついたうれしさに姉の手をつよく握ったのだった。

 その時も姉は、「やめてよ、いたいじゃないの」といったような気がする。気持ちの食い違いというのではないが、自分は追いついたうれしさのあまり姉の手をきつく握ったのだが、姉は急に握られたことを恐れて、聡子の手を振り払ったのだ。結局人生ってそんなもんなのだろう。

 あの家の子どもたちを強く愛せるのも、あの子たちに何も求めていないからだ。ただあの子たちを可愛がって大切にすればよかった。けれど、それが本当に人を愛することなのか。聡子は少々不安に思えてくる。私はあの子たちを愛していたのではなく、自分を愛していたのだ。狂おしいほどに誰かを愛する自分の心を愛おしんでいたにすぎない。
 そして、ここで誰とも話したくないのは、そういう純粋な愛というもののエゴに、自分が気づいて幻滅するのがいやだからだ。思い出が汚されるのを恐れているからだ。今はだれからも逃げていたかった。

 聡子は、給仕の女にたのんで日本酒をもってきてもらった。たいして酒が強いわけでもないので、それを飲むと息苦しいほどに上気し、顔が赤くなるのがわかった。心が上っついていて、自分はこうして誰かをまっているような幻想にとらわれたが、だれを待っているわけでもない。
 待っているとしたらあの子たちだろうか。その時、みぞおちの辺りがシクシクと痛み出し、現実に引き戻された。痛みは徐々に強くなってきている。額に冷や汗が浮かんでくるのがわかった。

 かろうじて部屋に戻ると、事務室の佐々木マネジャーに電話をした。すでに午後6時を過ぎていたが、佐々木はすぐにやってきた。

 室内で明かりの下に見る佐々木マネジャーの顔は不健康にむくんで見えた。黒っぽい制服を着ているため太った死に神のようにも見えた。

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