誰袖(福原遥さん)は、「わっちの袖の下で」と意知(宮沢氷魚さん)を誘い西行のあの歌を口ずさみます。西行といえばやはり待賢門院璋子さまへの悲恋でしょうか。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

大河べらぼう第25回
どこか不吉な恋
誰袖(たがそで 福原遥さん)は、「わっちの袖の下で死んでみませんか」
と意知(宮沢氷魚さん)を怪しくさそい、
誰袖の袖のもとに横たわる意知に向けて、
呟くように西行の和歌を口ずさみます。
願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
そして「西行になったご気分はいかがですか」
と尋ねます。
甘美で胸騒ぎするような場面ですね。
この先、二人の恋は決して成就することがないのでは・・・。
さらには、不吉な運命が待ち受けているのではないかと。

高貴な女性に恋した西行
先ほどのは、西行の和歌ですが、
颯爽とした北面の武士であった西行は、
若くして出家してしまいます。
そして各地をさまよい、
桜で名高い吉野の山中にも小屋を立てて暮らしていました。
前途有望な美男子の西行がなぜ若くして
出家したかについては、さまざまな憶測を呼びました。
その理由として第一に、思いを寄せていた高貴な女性に、
「あこぎの浦ぞ」
といわれたのが原因とか。
当時のあこぎとは、しつこいとか、
ずうずうしいという意味で、かなりきつい言葉ですね。
高貴な女性とは、鳥羽天皇の中宮 待賢門院璋子さまといわれます。
この方は藤原公実の末娘に生まれ、
赤子のうちに白河院の寵妃 祇園女御の養女となり
院の御所で育ちます。
白川院に溺愛された姫君
院にも孫のように可愛がられ、
院は姫の両脚を懐に入れて温めたりもしていたそうです。
さらには、寵愛するあまり
ついには姫をご自分のものにされたとか。
のちのち院は、璋子さまを
ご自分の孫の鳥羽天皇の后にしますが、
そのあとも関係がつづいたといいます。
で、当時宮中の人は「奇っ怪なこと」と噂し、
のちのち東宮の出自にまでつながる
一大スキャンダルになりました。
たいへん美しい方で、わがままいっぱいに育てられたでしょう。
だから、自分にあこがれる若き武士に「あこぎの浦ぞ」
というくらい、どうってことなかったでしょう。
しかし、それにより西行は失望のあまり出家して
放浪の旅に出、吉野に庵をむすび、
「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」
と花を詠んだものとしては最高の歌を残します。
きっと、意知と誰袖の恋に不吉なものを感じるのは、
西行の人生や歌に、ふたりのこれからの運命を、重ね合わせているからかもしれません。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
❇後白河法皇の母親は、「平清盛」にも登場した美女 待賢門院璋子(たまこ)さま。いろいろなウワサに包まれた方でもあった