後白河法皇の母親は、「平清盛」にも登場した美女 待賢門院璋子(たまこ)さま

画像はウィキペディアからお借りしました

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いま大河「鎌倉殿の13人」で、生き霊となって頼朝の前に現れ人気になっている後白河法皇だが、その母は大河「平清盛」にも登場していた待賢門院璋子さまなのをご存じだろうか。檀れいさんが演じていた美女である。

藤原家の姫だったが赤ん坊の頃、白河法皇が寵愛した祇園の女御の養女となった。女御には、子どもがいなかったからだ。白河法皇は璋子さまをたいそうかわいがり、昼寝のときなどもその両脚を懐に入れて寝まれていたそうだ。

やがて結婚相手を探すときがきた。 藤原忠通には体よく断られ、法皇の孫の鳥羽天皇に白羽の矢が立った。というのは、璋子さまについては、法皇が可愛がりすぎていろいろなウワサがあったからだ。

事実入内してからも頻繁に白河法皇の元に里帰りしていた。やがて、子が生まれるが、人々はその子は鳥羽天皇の子ではなく、祖父の白河法皇の子ではないかとウワサし、鳥羽天皇も知っていたようで我が子を「叔父子」とよんだりしていたという。この子は後の崇徳天皇である。

後白河法皇はその弟になる。後ほど、鳥羽法皇(璋子様の夫)と崇徳上皇(鳥羽法皇に早く退位させられた)は、近衛天皇の後の皇位をめぐって争いになり保元の乱という内乱に至った。

保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐に流され無念の死をとげる。その後、京でしばしば起こった厄災は憤死した崇徳上皇の呪いとされた。

まことに、どろどろした恐ろしいことの起こった時代だった。
その後、降って湧いたように後白河法皇に皇位がまわってきた。帝位に就くことは考えていなかったようで奔放な生活をされていたとのこと。「鎌倉殿の13人」の中の、あのやんちゃなキャラも当たらずといえども遠からずかもしれない、

それにしても、母の待賢門院璋子さまはよくよく美しい女性だったようだ。歌人の西行も、璋子さまに恋い焦がれ、あきらめるために出家したともされる。まことに美しさは罪であるといえるだろう。

最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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