ツグミ団地の人々 〈レモンパイレディ1〉
そもそもなぜそんな話になったのかわからない。
納期明けで、会社の帰りに焼き鳥屋に寄り、そのほうが駅まで近道だからという理由で公園の中を突っ切って帰った。そもそもそんな公園があるなんてそのときまで気づかなかった。
「疲れた、少し休んでいこう」
と山野はいい、砂場の横にぽつんと置かれたコンクリートの木馬に腰を下ろした。何かいいたそうな顔だ。僕は山野が今日、会社のあるフロアでエレベーターを降りたあと、自動販売機の前で文香としばらく立ち話していたのを知っている。受付の女性がわざわざ指さして教えてくれたのだ。
おどけてわざと深刻そうに、ひたいには何本かのしわをよらせていた。
砂場の先に、お椀を逆さにして大きくしたようなコンクリートの遊具があり、表面にいくつもこぶし大の穴が空いていた。
僕は早く数駅先にあるアパートに帰りたい。今夜は文香が部屋にきて待っていてくれるはずだし、夕食は食べて帰ると言ってあるけど、ワインの1本くらいは用意しておいてくれるだろう。それで乾杯し、結婚式について決めなければならないことをいくつか話し合い、明日の朝はたっぷり寝坊できるはずだ。
簡素な僕の住まいに、文香がいるというそのことだけで、待っている部屋の感じががらりと変わるのがいつも不思議でたまらない。僕自身にさえ普段はよそよそしい部屋が一気に親しみをおびたものに感じられるのだ。文香は小柄でぽっちゃりしていてちょっと鈍い。低いゆっくりした声でぼそぼそ話す。なにかいってもまるでちがう答えが返ってきてびっくりする。聞いていないのかとも思うが、ちゃんと聞いていて、頭の中でまるでちがう話しに飛躍してしまうのだ。
文香のなによりの特質は、ひとの話しを一生懸命に聞くことだろう。あいづちを打ったり、うなづいたりしない。ただ顔を見ていうことにじっと耳を澄ましているのだ。そしてなんでも受け入れるか、それができない場合、息をつめたような顔をする。
「うーん、どうしようかな」
そんな困った顔を見るたびに文香の受け入れられることだけをいおうと思う。僕らは三ヶ月後に結婚することになっていた。
気の進まない僕にかまわず山野は話し続ける。硬い髪質のぼさぼさの髪がつんつんと外に向かってつきだしている。これは無精のせいとかではなく、山野という人間そのものを表していると思える。だいたいこの男を見ていると、相手にどれくらい気をつかわないでいられる人間がいるか、その見本を示されてるような気持ちになる。特に僕が相手だと、その傾向が顕著になるようだ。
僕は相手に気をつかい過ぎてくたくたになってしまう。
会社が終わってから飲みにいったり、休日にもつるんで出かけようなんてヤツの気が知れない。会社のだれにも会わない日が週に二日、それでやっと小さくて精巧な機械みたいに自分を手入れして、生活を維持しているのだ。
「『レモンパイレディ』ってほんとうにいるのかな」
山野はそばのベンチにどっさりと腰を下ろすと勝手にひと休みすると決めたようにネクタイをゆるめ始めた。
僕たちの広告会社は、不動産関係のフリーペーパーもつくっている。その中で都市伝説についてあつかうことになり、山野がアメリカの話をどこからか拾ってきたのだ。
「レモンパイレディか・・・」
穴の開いた遊具を見ているうちに思い出した。
僕の住んでいたツグミ団地の公園にはパイプが奇妙にねじくれた形の遊具があった。子どもの体ひとつが通り抜けられるほどの太さのパイプ。入り口からのぞくとその奥はまゆ玉の中のように白い靄がかかって見え、そこに体を押し込む瞬間は、まるで別の次元の世界がそこに穴をあけて待っているように思えたものだった。