グリーンベルト(31)

 それから私たちは、お別れの雨の湿っぽい気持ちでめいめいいすに座っていた。

 部屋のカーテンは下ろされ、弱い明かりの下に人々の顔だけが白く浮かんでいる。後ろの壁にはまるでもう一つ別の集まりがそこで行われているかのように人の影が張りつき動いていていた。

 ヘレンのアップライトピアノの上では、髪をかむろに垂らした日本人形が頭を傾けて部屋の一点を見つめている。部屋の中を重たい空気が支配していた。部屋の中は暗いままで明かりはいつまでも増やされなかった。意味もなく私は咳払いした。

 ふいにヘレンは立ち上がり、隅の本箱の前で行くと本を一冊抜き出した。そのまま私の前まで来ると小さな本を差し出した。
「バイブル」ヘレンは言った。「これを毎日くり返してお読みなさい」
 それからヘレンは口をもごもごさせて言った。

「寛容にして慈悲あり」私はうなずいた。ヘレンは満足そうに微笑むと続けて言った。

「あたしは毎日唱えてるわ。そして少しずつ覚えてるの。それは心にもいいのよ、心にも記憶にもね。あなたもやってみて」

「ええ、そうするわ」

 ヘレンはうなずいて笑ったが、その時のヘレンはとても疲れて喘いでいるようにさえ見えたので、私はとても笑う気にはなれなかった。  自分の母国にいるのに、と私は思ったのだ。

 日本に帰ってからもしばらくの間は、思い出すヘレンの顔には淋しさのようなものがついて回り、そのたびに悪いことをしたような気持ちになった。

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