午後のサンルーム(2)

 ここは老人たちの天国でもあり墓場でもあった。彼らは幸せな人々であり、十分生きたという意味で不幸でもあった。

 食堂の中は混雑していた。
 すでに食事にかかってる人々は、早く来すぎたのを恥じるように肩を丸め黙々と食べ物を口に運んでいる。夫婦を認めると軽く会釈し、次に彼らがどこに席をとるのか老人特有の好奇心でじっと見つめていた。

 夫婦は、人とぶつかりそうになるのを避けながら中央のテーブル――そこは彼らグループの定位置だった――まで進んだ。グループの中心である磯野夫婦がすでに着席し食事をしている。
 二人が席に着くと、磯野菊江が箸をおいて話しかけてきた。
「遅かったわねえ、心配してたのよ」
 微かに眉をひそめる顔が上品だ。自分でもそれをよく知っていた。

 磯野菊江は快活なきびきびした所作の老婦人で、だれにでも愛想よくするが相手によって笑顔にも微妙な差をつける。それがこの人流の意地悪といえなくもなかった。

「このひとが昼寝してて、遅くなってしまったの」
「まあ、午前中からお昼寝?」
 菊江が呆れたようにいう。
「今朝は、夜明け前から起き出して、ベランダでごそごそしてたの。だから、きっと眠気が差したんだわ」
「待っててくれと頼んだ覚えはない」
 磯野がふいに、大きないかつい顔を向けてきた。
「ほーう、奥さんは、片時もご主人のそばを離れたくないのですな」

 この男は、日に一度はご婦人方に何かしら艶っぽい冗談をいうのを日課にしている。
 身なりはきちんとしてるのにどこかちぐはぐだ。それはきっと、人間としての統一された全体像以前に、ごつごつした顔や手、肩幅、太い眉など造作の一部だけが先に目に入ってしまうからにちがいない。

「暗闇に明かりがボーッと浮かんでたら、だれだってびっくりするわ」
「昨夜、死んだ親父が夢に出てきた。形見にやった釣り竿どこにおいた? ときかれて目が覚めた。それからどうにも気になって」
「アユ釣りですか。僕も若いころは、けっこう、やったもんだけど、そうだ、今度いっしょにどうですか」磯野がいった。
「それは、いいですなあ」

「形見というと、さぞ立派な釣り竿なんでしょうな。いかほどのものなんですか」
 磯野は、なんでも値段を訊かないと気がすまないのだ。
「大いばりでくれたんだけど、近所の釣具店に並んでた、どうってことないものなんですよ。しかし形見といわれると、なんだかそんな気になって」
「わかりますなあ、その心境は」磯野がしみじみといった。

 二人の男は、普段これほど長い会話をすることはない。男どうしは特別親しい間柄ではなく、単に妻たちの隣りにすわっているにすぎない。
「釣りもいいが、山を歩いてみたい」
「あぶないわよ、その年で」恵子が顔をしかめる。
「大丈夫だ、死ぬときはきれいさっぱり死んでやる」
夫が一人で楽しみたいのか一人で死にたいのか、妻には見当がつかなかった。

「あたしがここの経営者なら毎日、お年寄りの体にいい食べ物なんかじゃなく、コレステロールいっぱいの食事を出すわね。回転をよくして、フレッシュな年寄りが次々に入ってくれた方がよいでしょう。フレッシュな年寄りがね」
菊江が得意になって弁舌をふるっていた。老人たちが骸骨のカタカタ鳴るような笑い声を上げる。入れ歯をつけ直す者もいた。

 恵子はふと通路をはさんだ斜め前の席に目をやった。
 そこは今、空席になっている。半年前までは佐々木シズ子の席だった。シズ子は八十にもなる小柄な老女で、夫は商売かなんかをしていた人だと聞いた。

 みんな過去の生活を捨てて入居したはずなのに、かえって用心深くなり人づき合いを避ける者もいた。シズ子の夫がそうで、陰気な顔で妻にもそれを要求した。
 始終用事をいいつけていた夫が亡くなってから食事の時、シズ子はいつも一人だった。
 下を向いて黙々と食べ物を口に運びながら、ふと顔を上げ恵子たちのテーブルを見つめていた。けれど視線を捉えようとすると、慌てて目をそらすのだった。

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