ツグミ団地の人々  〈小鳥が逃げた2〉

美佐子が購入したコーヒーショップは、美佐子の住むツグミ団地から歩いて十分ほどの駅のガード下にある。早紀の澄む入り口は狭く、中も幅が狭いのだが奥行きだけはたっぷりしていて顔見知りの団地の住人が一人二人座っている。
  たいていは一人暮らしの高齢男性である。昼過ぎにやってきてランチにスパゲッティナポリタンを食べ、その後もカウンター横の新聞や雑誌のページをなめながらくりかえして読んでいる。もう秋の日は傾き、海側から塩気を含んだ風が吹き付けてくる時間になったが、その老人はいっかな席を立とうとしない。
 その横顔を盗み見ながら、ふとおびえる気持ちになる。この老人は築50年の団地の建物と競うようにシワを刻んでいくのだ。そしてふと思い出したのは、娘が中学生の頃のある宵のことだった。もう二十年以上も前のことだ。

 美佐子はいつものように台所の窓の横に広がる暗い森を見ながら布巾で皿の水気を拭き取っていた。電話の呼び出し音がして美佐子は急いで居間に向かった。
「これからバスに乗るよ」
女の子の甲高い声が耳の中で鳴った。娘の奈々が宿が終わって近くの駅から電話してきたのだ。壁掛け時計を見上げてあと十分したら出よう、と思う。

 道路を渡るとスーパーの閉じたシャッター前の暗がりに数人の中学生くらいのポストセブン男の子達がたむろしているのが見える。 
 制服らしい白いシャツがズボンの上にダラリと垂れ下がり、街灯がぼんやりとその顔を照らしている。大きなペットボトルを口につけた暗がりの中尾w泳ぐように歩いて、甲高い笑い声を上げ白い液体を敷石の上に吐き始めた。
 勤め帰りの男性や女性がバス亭の方からはき出されるように近づいてくる。そして無言の行列となって横を通り過ぎていった。

退職して間もない風のジャージ姿の初老の男性が、犬の腹を抱きかかえ、一本ずつ犬の腹を水道の下で水道の下で一本ずつ足を洗っている。小型犬はおとなしくされるままになっている。団地の規則では犬は飼え、ここでは犬は夜更けに散歩するのだ。

背広の内側に疲れを貯めた風の男性が次々とバスからはき出されてくる。ブレザーと短いスカートの少女が十二歳の若い足取りで降りてくる。美佐子は娘から目を離さない。近づいてきたところで合図すると中年男性が不審そうにこちらに視線を向けた。額が雨か脂汗かわからないもので滲んでいる。
「駅に着くと疲れて、イヤで溜まらなくなるんだよね。だから電話しちゃうの」
「そのほうがいいわね。もう九時だから、一人で帰るの危ないもの」
 母親は慰めるように言う。

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