抜け道 (22)

 家に戻ると、あら、雑魚ばっかりだね、母親が彼のバケツをのぞき込んでいった。それから弟のバケツを見て一匹の魚を指し、あれは、なんていう魚か知ってるかい、ときいた。
「ヤマメ」 
 母親は小さい声で、弟の方を見ていった。弟は関心をなくした顔で、バケツの中をのぞき込んだ。弟は何にでも執着の薄いほうだった。
 土手の横に紫苑の群生が見えた。彼の頭の中からふっと人の姿がかき消えて、川面から吹く風の中に紫苑だけが青い花をゆらしていた。弟は、何人かつきあった女はあるようだが、けっきょく一度も妻帯しなかった。

 彼には妻がいつも、何かの気配に耳を澄ましているように思えた。
 ある朝は、彼が会社に出る時刻を、じっと待ちわびているのに気づいた。化粧はまだしていなかったが気もそぞろで、彼が洗面所に行きかけたとき、納戸から出て勝手口の鍵を開ける妻の姿を目にした。
 いたずらっ気を起こして納戸をのぞくと、中身の入った小さい皮の手提げバッグが、壁に立てておかれていた。小柄な妻にふさわしいこぢんまりした荷物だ。彼はそれを腕に提げて、電車に乗り込む妻を想像した。
「おやおや」と彼は思う。なんだ、そんなことだったのか。
 妻のうかつさを笑う気持ちになる。けれどそれが、妻の突きつけた何かのように思い、急に胸がざわめいた。

 地味ななりの妻の、薄青がかった目に宿る小さな願望を、彼は新聞の横からそっと見やった。繁華街を、駅の構内を、化粧の薄い妻のしぼんだ顔が、どのような表情を浮かべて通り、人々を眺めるのだろう。
 ある夜、疲れた顔で妻はいった。
「あなたが、あたしを見てる様子が恐ろしい」

 弟の葬式を済ませた数日後、彼は弟の住んでいたアパートを訪ねた。違う沿線沿いだったが、その二つをつなぐ新しい路線が敷かれていて、家からは思いのほか近かった。
 部屋の中には、目の粗い古い上着が掛かり、ちゃぶ台があって、押し入れに下着やちょっとした身の回りのものがあるほか、返品された器具のようなものが入ったダンボールが山積みされている。それだけの部屋だった。女のいたような・・・・・・妻のきていたような形跡は、なかった。彼は、探し物をして見つからなかったときの、軽い失望を覚えた。

 アパートは場末の裏通りにあった。帰りがけ、飲み屋の女が出てきて店先に暖簾を掛けていた。彼は何かきいてみようかと近づきかけ、結局その横を黙って通り過ぎた。
 そのとき急にある考えが浮かんでぎくりとした。すぐさまそれを否定した。家には母親がいる。不可能だ。けれどもそれが、母親の望んだことだとしたら・・・・・・。

 

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