中村獅童さんの梶原景時は一見、無表情なのに内面の葛藤を表していてすごいなあと思う/写真は三浦一族と畠山重忠の戦った鎌倉 由比ヶ浜

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石橋山の戦いの後、三浦一族と畠山重忠の軍勢が戦った鎌倉の由比ヶ浜

吾妻鏡によれば、建久10年4月12日、二代将軍頼家の直接採決をやめ、北条時政、和田義盛、比企能員ら13人による合議制が始まったとのことです。

13人の合議制といいますと、まるで民主的なすばらしい体制のように思えるけれど、それは、つまり頼家に任せていては心もとないってことですね。

しかも、これまで刀と弓矢で戦っていた人々に政治を任せてうまくいくとは思えない。これが後の、血みどろの勢力争いのきっかけだったかもしれない。

出来すぎ、非社交的な人があぶない

だいたいそんな中で最初に足を引っ張られるのは、出来すぎでしかも非社交的な人です。
つまり梶原景時(中村獅童さん)だったわけです。

「二君につかえず」といった結城朝光(高橋侃さん)を糾弾するつもりが、まんまと三浦義村(山本耕史さん)と朝光にやられて、大勢の御家人に告訴状を書かれるはめになってしまいました。

吾妻鏡によれば、正治2年(1200)1月20日、梶原景時は息子とともに相模を発ち、京に向かおうとしました。後鳥羽上皇の招きに応じようとしたわけですね。

けれどそれは、鎌倉にとっても、義時(小栗旬さん)にとっても、容認できるものではありませんでした。京に行かれるということは、今の鎌倉がいかにダメかを京側に伝えることになってしまう。

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後鳥羽上皇がそんな思惑で待ち構えているのを義時も百も承知で、そんな誘いに有能な景時が乗ってしまったら、鎌倉にとって危機でしかない。

賢く有能だけど実は不器用

梶原景時は、賢いけれど実は不器用、そんな景時のことを頼朝は分って使っていたが、考えの浅い頼家にはそれがわからない。だいたい、先代からの忠臣は難しい。何かと親と比較され、小うるさいと感じてしまうだろう。

中村獅童さんは、無表情な中に内面の葛藤を表現していてすごい役者さんなのだと改めて感じさせられます。

この難しい役は、中村獅童さんあってこそでしょう。石橋山のあとの洞窟の出会いの際も、あのときの景時の表情、思い出すとぞくぞくしますね。

そして何が悲しいと言って、誰よりも鎌倉のことを心配していた景時がこんな些細なことで失脚してしまうこと。これは鎌倉幕府の欠陥を露呈することになった。
この失脚は、大きな損失でしょう。

そして、その後の血なまぐさい足の引っぱり合いの前哨戦にもなってしまった。

そんな中、「見栄えですね」という畠山重忠(中川大志さん)の呑気な言葉が涙をさそいます。カッコいい理想的な鎌倉武士と言われた人だけに。その先のことを誰が予想したでしょう。

苦渋にみちた義時の表情

朝光が助かり、景時が非業の死を遂げる道筋には、正義はどこに・・・とも感じさせますが、これが方丈記にも記された、浮いては消えるうたかたのように人の世の常なのかもしれません。

善も悪もすべて人の世の空しい現象のひとつにすぎないということでしょうか。
三谷幸喜さんの脚本は現代的と言われますが、実は古くからの日本人の考えや死生観をしっかり踏襲しているように思えます。

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また、24の放送では、義時の表情が一段と厳しいものに。

鎌倉を守ろうとするために悪にでも手を染めようとする決意がその眉間にしわを寄らせた苦しげな表情から感じられます。

それを傍らからしっかりと見つめる泰時。
息子の泰時は、義時の光の当たるほうの部分。義時は、汚れ役になってでも鎌倉を守ると決意した。この父親を見つめていたことが、後に泰時に御成敗式目をつくらせたのかもしれませんね。

二度と戦のない鎌倉、正義がまかり通る武家社会を実現するために。
このストーリーは、息子の泰時をもって完結するのかもしれません。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

☆大河「鎌倉殿の13人」梶原景時のこれからの運命が気になります

鎌倉殿の13人、「名前を、葵に変えました」の言葉に驚く。大姫は葵の上という気位の高い不幸な女性に何を託したのか。

鎌倉殿の13人、八重さんは伝承のなかに還っていった。だが、これはあまりに残酷で悲しい。

鎌倉攻めの作戦を練る姿に思わず涙ぐむ。義経は最後まで、義経らしく行動していた。つらいシーンの多いなか、八重までいかないでほしい。

「鎌倉殿の13人」を見ていて、演技がうまいってなんだろう、とふと考えてしまう

ほか。



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