抜け道 (12)

 女二人の笑い声で、彼はふと我に返った。彼はあまりに深く考え込んでいたので、自分がどこにいるのか、すぐには気づかないほどだった。女たちは疲れた様子でまだ話している。見上げると、雲が頭の上に増えている。

 低く風が吹いて、彼の左腕のあたりを撫でていった。軽く身震いして立ち上がると、新聞を店の中に戻しにいった。出てくるときに電気釜のことを思い出し、彼はその通り沿いにある大きな店構えの電器店に立ち寄ることにした。
 購入したのは一合炊きの炊飯器で、それはちょうど、彼の掌にすっぽり収まるほどの大きさだった。女の店員は、ダンボールの箱ごと白い包装紙でくるんで、持ちやすいように紐をかけた。彼は札入れから札を抜き出すと、カウンターに乗せた。  

「これで、勘定してください」
 店員が困惑して、彼の顔を見た。
 見ると、千円札が一枚置かれているきりだ。自分では、一万円のつもりだった。
「ああ、ごめんよ、勘違いしてしまった」
 彼は改めて一万円札を取り出し、店員に渡した。店員は不審な顔のままレジに納め、釣りを取り出すと、少し迷ったあと、一枚ずつ数える手つきで彼の掌に乗せていった。
 彼は屈辱を感じた。箱を受け取ると、すぐに店を出た。

 キーコ、キーコ。

 歩道で男の子はまだ車を動かしていた。車道に向かって敷石が浮き上がり、そこを車は上体をそらせ、あえぎながらのろのろと上っていった。

キーコ、キーコ。

 男の子は、地面に顔をつけ、車に何か話しかけている。
 歩き始めて少しして、ガーン、とすごい衝撃音で彼は振り返った。
 
 タイヤが軋み、オートバイと人の体が、彼の目の前をスーッと横倒しになって通り過ぎていった。オートバイは二、三十メートルもスライドしてやっと止まった。
 男の子が車道の隅っこに、車のおもちゃを抱え、小さくしゃがんでいる。急停止したトラックの運転手が、慌てた様子でドアを開けて降りてきた。オートバイが子供をよけようとして、ハンドルをトラックの荷台に引っかけたらしい。

 赤い髪の女が車道に走り出てくると、男の子の体を抱え路上から連れ去った。もう一人の女が何か叫びながら後を追いかけていく。路上のアロハシャツの少年は、ぴくりともしない。倒れたバイクに、まだまたがって走っているように片脚をかけたままだ。
 
 彼はやさしい父親のように佇み、少年が立ち上がるのを待った。少年は動かなかった。即死なのだろうか。そして、たった今少年が死んだのを、だれも気づかないのだろうか。見ていたのは彼一人だったのか。人が集まり始めていた。

 その時エプロンをした少女のように華奢な女が人混みをかき分けて現れ、少年のそばに走り寄った。倒れた体を抱き上げようとして、何人かの人に制止された。それがさっき見た少女なのかどうか、彼にはもうわからなかった。救急車がけたたましいサイレンを鳴らして到着した。若い男が担架に乗せられ、運ばれるのをちらりと見てから、彼は背中を向けて歩き出した。

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