ツグミ団地の人々 〈苦い水3〉

 ナイフで残りのバターを塗り付け、焦げ目の付いたところにシロップをたっぷりかけると、平八は最後の数切れをうまそうに口に運んだ。酒を飲まない平八は甘いものに目がないのだ。
 皿の横にはおんどりの形のエッグスタンドが置かれ半熟卵が入っている。これは、朝のこの時間のみ出される客へのサービスなのだ。
 

 鶴田平八は、卵の殻をちびちび剝きながらカウンター席にいるマッサージ師見習いのタカ子に話しかける。
「マリリンは死ぬ前、だれに電話したかわかるかね」
「はあ?」
急に話しかけられ、タカ子は振り向いた。

「ききききき」と店の奥で飼われているインコが驚いて鳴声をあげる。
 鶴田平八は一日一回はこの店にやってくる。そして、一日一回はその謎解きのような質問をだれかに浴びせずにはいられないのだ。
「その時の様子を想像するだけで胸がかきむしられるような気持ちになるんだよ」

 平八は、女子大の英語教師だった。若いころに映画雑誌に出ていたマリリンの写真を目にし、あまりの美しさに目をそらせなくなった。その時のショック以来、マリリンが永遠の女性になったのだ。
 その割に奥さんは、鬼瓦か、山姥かといったご面相なのが不思議ではある。確かにマリリンに比べたらどんな女だって見劣りがするだろう。どの女にしろ五十歩百歩だ。

「あれは寂しい笑顔なんだよ。母親は精神病院に入ってて、孤児院と親戚の家のたらい回しだったたからね、いつも笑ってなきゃいけない。そうでなきゃ生きていけなかったんだ。かわいそうに」
 平八は丸い眼鏡をずり落とし、つぶらな丸い目を潤ませながら窓の外の杏の木に目を向ける。

 今日は心なしか元気がない。上着の内ポケットからしわくちゃの千円札を取り出すと、カウンターの上に置いた。
「両替頼むよ。十円玉入れてね」
「はい。十円玉ですね」
「いつもすまないね」
「おじさん、テレカ買っとけば。そのほうが安くつくよ。あの電話、両方使えるんだよ」
 タカ子が親切気に言
う。
「ああ、そう?」
 平八ははびっくりしたように言うが、すぐにそんなものは忘れ十円玉をわしづかみにすると、せかせかと電話の置いてあるカウンターの端まで行った。

「昨日かけたときいなかったね。どこに行ってたの? ああ、そうかい? そうなの。いつも忙しいんだね」
  何かを問いただす、老人の甘い声が聞こえてくる。心なしか頬に赤味がさしている。
「まあ、なんでもいいか、生きていく、張り合いになりゃ」

 タカ子がもっともらしい顔で解説する。
「わかったよ。今度いくとき、カーテンレールを買ってけばいいのね」
 艶のある潤んだ声で、平八は受話器にそっと話しつづける。
「……」
「だいじょうぶ。任せといて、ちゃんと付けてあげるよ」

 平八は昔から女性にちょっとした頼み事をされ、それをしてやるというのが好きだった。そういうとき、彼の体は実によく動いた。
 だから今も早くバスと電車を乗り継いで、彼女のところに行ってやりたい。女の困った様子を想像すると、どうにもじっとしていられないのだ。

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