抜け道 (20)

 彼は、かつてモンゴルの砂漠で見た夕焼けを思い出していた。鉄錆び色の陽が地平線の向こうに完全に姿を消すと立ってはいられない寒さだった。蠅はもういなかった。日中、モンゴル人の技師は彼にいった。

 ――あなたはサングラスをしなければいけない。でないと、蠅があなたの目に卵を産みつけるだろう。

 乾いた砂漠の中では、人間は豊潤な二つの泉をもつ存在であった。少なくとも蠅の見地からすれば。巨大プロジェクトの先行きに陰りが見え始めた頃のことだった。

 ここでは何もかもが砂に呑み込まれる。鉄骨を組み合わせてつくる人間の建造物が何ほどのものだろう。砂漠では、巨大な石仏さえ洞窟の中に身をひそめてじっとしているのだ。何かが根本的に間違っている気がした。
 夕暮れ近くなると、彼は早くゲル(移動式住居)にへたりこみ、熱い茶をすすることばかり考えていた。

 眠れぬ夜には、星空の下に出て、かつて弟の捕虜となっていた大陸の地の果てを凝視した。地平線が黒々とした一本の帯となって彼の目の前を塞いでいた。弟を哀れに思う感情は少しも湧いて出なかった。彼はそれを乾いた砂漠のせいにした。ゲルに戻ると、夢を見ながら眠った。

 彼の体は大きな砂の塊の下に潜っていた。蠅がうるさく彼の周りを飛び回っている。彼は何かから逃れてそこに隠れているのだ。外には白い砂が広がって、丘のように盛り上がった砂の手前に弟と妻が並んで立っている。二人は濃いサングラスをしていた。
 おーい、彼は呼んだ。
 弟と妻は振り向き、彼に気づくとあわてた様子で顔を前に戻し、何事かをささやき合っている。
 おーい、もう一度彼は呼んだ。今度はもっと弱々しい声だ。

 弟がこちらを向いた。弱り切った顔だった。腕を何度か上げては、下ろし、隠れているようにと合図した。彼は首をすくめ、さらに頭を低くした。二人は丘の方に向かっていく。歩き出してすぐに妻が転び、足をすくわれて弟も尻餅をついた。彼は呆れて、くっくっと笑い声をあげた。

 二人の姿はやがて、混じり合い一つの黒い点へと収れんし、地平線の向こうへ消え去った。彼は小首を傾げ、父親のようにしてそれを見送った。

 すっかり見えなくなると疲れが出て、砂の上にどっと倒れて寝た。蠅が一匹頭の上を掠めていった。しまった、サングラスをしていなかった。眠りにつく直前、頭の中をよぎったが、それももう、どうでも良かった。

 蠅はその時から彼についてきて、たった今も暗闇のどこかで、彼の目に卵を産みつけようと狙っているのだ。胸のあたりが苦しいが、これは十年来ずっとそうなので、心配するほどのことはない。そうだ、死んだ振りをしてみることにしよう。

 彼は目をしっかりと閉じ、少しも動かなかった。彼の体はたった今、なだらかな丘のような死体になったのだ。

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