玉木屋の女房 12~17

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 蔦屋重三郎の思惑どおり、写楽という絵師の絵は大評判になった。江戸っ子は目新しい物好きだ。これまでの浮世絵といったら、北尾重政の「青楼美人合姿鏡」、喜多川歌麿の「江戸三美人 富本豊雛、難波屋おきた、高島おひさ」などのような、美しくなよやかで、あだっぽい女の絵が主流だった。

 そんな中で、写楽の絵の人物たちは美しくも、あだっぽくもなく、むしろゲテモノ、キワモノの類に見えたしある役者の絵などはまるで人生を馬鹿にし尽くしているようにも見えた。

 中でも度肝を抜いたのは、「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」だった。誇張された表情や、赤く縁取られた目、一文字に惹いた口などあまりに生々しく、極端すぎた。前に突き出された両手はまるで赤子の手のように小さく気味悪かった。

「悪役には違いねえがな、これだけ悪そうな格好にしなくても」
「やれやれ、あの役者も気の毒にな。まるで違った姿に描かれるなんて思いもしなかっただろうよ」 
 人々はそんな風に噂し合い、まだ見ぬ者はその噂を聞きつけて一目だけでもその絵を見たいものだと思った。流行に遅れるはけにはいかない。

 耕書堂の店の者たちでさえ気味悪がったのに、なぜか、あれよあれよという間に江戸中の評判になった。絵師が無名だったことも、流行に拍車をかけ、ますます人々の興味を惹き、毎日店の前には刷り上がった絵を求める人々の行列ができていた。
 
 たまに着流しのような格好で現われて、そんな様子をちらりと見ては、呆れたような様子で立ち去っていく役者風の男がいたが、それが東洲斎写楽その人だと気づく者はいなかった。
 

 彼はただ自分の知っている役者たちの絵を姿をなぞるように描いていたつもりが、いつしか役へのこだわりや、不運、人の心の裏側のおぞましさなどを生々しく描き出すことになってしまった。
 そこに、人々は共感し、ヤンヤの喝采を浴びせた。いつしか彼はもう自分が二度と役者には戻れないのではないかという不安を感じた。仮の姿でしかない写楽がいつしか本物の彼を乗っ取っていたのだ。

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 多江はあれから耕書堂に一度も行っていない。あの絵師はまた店の奥で、背中をまげて蔦重さんと次の役者絵の相談でもしているかもしれない。きっと、店のみんなにもちやほやされているのだろう。 ゆらに頼まれて急ぎの届け物をしたあと帰る道々、川のそばを歩いているあの男の姿を見つけた。
 
 斎藤十郎兵衛といっていいのか写楽というのがいいのか多江にはわからない。
 体が前よりも小さくなって、背中はいつもより、よけに曲っているように見えた。
「なあんだ、そんなところで、どうしてるの」
 声をかけたのは、ちぢこまった背中に放っておけない切迫したものを感じたからだ。

 十郎兵衛どのは、ハッとしたように顔を上げ、多江の姿を見つけるとなぜか急に余裕を出すようにふふふと笑っていった。
「あたしが、てくてく歩いてるのを、ずっと見てたんですかい」

「はい、見てました」
「まあ、恥ずかしいような姿を見られたんですね」
「そうでしょうか。初めて、十郎兵衛様の飾りを取り払った自然な姿を拝見しました」
「いつも、あたしは、あたしですよ」
「先ほどのお姿は、十郎兵衛様でも写楽でもなくて、ふわふわとどこかに行ってしまうように見えました」
「どこかって、どこへ」

「わかりません、それであたし、なかなか声がかけられなくて」
「いやだなあ、やっぱりずっと見てたってことじゃねえか」
「いえ、どこに向かわれてるのかなあ、って思って。蔦重さんの店とは反対の方向ですものね」
「いやね、こうやって川のそばを歩いていって、気が向いたら、飛び込もうって算段でさ」
「え」多江は息を呑んだ。
「蔦重のところに行っても、どうした、次の絵はまだか、って催促されるくらいが関の山」
「蔦屋のおじさんも、早く次の絵が見たいんでしょう。うちの職人さんも、一度、大首絵を彫らせてもらいたいもんだ、って。腕が鳴るって・・・・・・江戸中の人が次の絵を楽しみにしてますよ」
「そうかい。あんなもの楽しみにされてもなあ」
 写楽はつまらなそうにいった。

「それに、でえいち、いくらいわれたってもう描けねえんだ。あれで、もうおしまいさ」
 多江はふふふと、笑ってごまかすようにいった。
「たくさん描いたから、疲れてるんですよ」
「もう、どうでもいいや。疲れていようが、いまいが、おんなじさ。描けねえもんは描けねえんだ。さあ、あんたはもうお帰り」
「でも・・・・・・」
「でえじょうぶだって、飛び込んだりしねえからさ。ちょっと、あんたをからかっただけだよ。あたしは本職は、役者だからね。さ、さ、もう帰りな、遅くなると家で、おっかさんが心配するだろう」
「じゃあ、約束してくださいね。変な気起こさないって」
「ああ、でえじょうぶさ。まあ、そんな気になったら、あんたに道連れ頼むからさ。道行きなんてしゃれたもんじゃないか」

「え」
 多江が息を呑んで、聞き返そうとしたとき、写楽いや十郎兵衛はすでにすたすたと歩き始めていた。

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 川沿いの景色がすべて夕闇に沈んでいくような中で、写楽の桃色の着物の裾だけが、冗談のように視界に入ってくる。 あの人はあたしからは一番遠いところにいる。
 そう思えば、なぜあんなに、あのひとのことが気になるのだろう。多江は、きびすを返して家の方にに向かった。継母のゆらの待つ家へ。自然に速歩になっている。
 なんで、あたしは、こんなに急いで家に返ろうとするのだろう。そして、どうしてあたしは、あの人をお母さんと呼んでるんだろう。

 ゆらが嫌なわけではない。ただいつから、あの人のことをお母さんと呼ぶのに慣れてしまったのか。それがわからない。あの人に馴らされただけなのか。それともあたしは本当にあの人をお母さんと思っているのか。わからないまま、多江は脚を速めた。多江の頭の中に幼い頃の情景が浮かんでくる。

 父親が亡くなったあと、間もなく玉木屋は傾き、親子二人の暮らしは困窮して数日間ほとんど何も食べられなかったこともある。
 そんなある夜、ゆらが多江を道連れに無理心中しようとしたのだ。 ゆらの手が自分の腕を掴み、そしてその手が徐々に首の方に伸びてきた。その時、多江はなぜか笑った。ゆらは、ハッと手を離し、部屋の隅まで走って行くと柱にもたれしばらく動かなかった。その後、肩をふるわせ嗚咽した。
 

 作治が戻って来たのは、その数日後のことだった。
「おかみさん、またここで働かせてくんねえ。他の店に行ったけど、どうにも性に合わねえ」

 ゆらは青白い顔で立ちあがると、作治の手をつかんでいった。
「戻って来てくれたんだね。うれしいよ。あんたがいてくれたら百人力さ」

 ゆらの目に涙が溢れなぜか分からないけれど、作治も泣いていた。

 その時、作治の後ろから赤い頬の少年がのっそりと顔を出した。
「え」

 ゆらと多江は驚いて顔を見合わせた。
「俺の妹の次男坊です。妹の家は子だくさんの水呑百姓で食い詰める前にひとり引き取ってきたんです。なんとかこちらで働かせてもらって、いずれ一人前の職人に仕立ててもらえたら」
 
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 このところ、ゆらの機嫌がいい。多江に買い物を言いつける声も心なしか弾んでいる。
「豆腐を買って。それから八百吉へ回って菜っ葉もね。今日は肌寒いから、温かいものを炊いて食べさせよう」
 ちらりと工房の方に視線を流しながら言う。寒いと言いながらも、襟足を大きく抜いて、白い首筋を心持ち曲げた仕草が妙になまめかしい。 
 工房からはほとんど音がしない。老人と少年の二人は版木に顔を被せるようにして彫ってるに違いない。いや少年はまだほとんど見ているだけだ。親方のやる動作を何一つ見逃すまいとして。

「わかったわ、おっかさん。ほかにもある」
「それだけでいいから、後は、寄り道せずにさっさと帰っておいでよ
旨い鍋を作るからね」
「はい」
 素直に言って多江は暖簾をくぐって外に出た。 


 ゆらに頼まれた買い物を済ますと、多江の脚は無意識に芝居小屋の方へと向かっていた。
 小屋の前には、のぼりが立ち一座の名前が大きく書かれている。小屋の前には、香盤表とともに今出ている役者の絵が張られている。多江は一枚一枚丹念に見て行く。
「あの人の顔はない」 多江はちょっと失望して立ち尽くしていた。

 この前まで、本当にあったのにどうしたのだろう。「上方の芝居に出る」って言ってたけれど、ほんとにもう行ってしまったのだろうか。それとも、まさか・・・・・・。
「多江ちゃんじゃないか」
 ふいに言われて振り向くと、写楽いや十郎兵衛がそこに立っていた。最近いちだんと痩せたようだ。はだけた胸に、あばらが浮き出ている。


 この人の描く大首絵の役者の顔はぞくぞくするほど怖くて、それでいて引き込まれずにはいられない魅力があるのに、絵師の写楽は、寒々とした着流しに金とも縁のなさそうな貧相な男だった。役者としても冴えないが、あのふてぶてしい大首絵のほうに、精力を全部吸い取られているのかもしれない。
 逆にあの絵の作者だと思えば逆に、この凄まじい姿に引き込まれるものもある。
 しばらく迷ったあと多江は訊いた。
「上方に行くんですか。それともやめにした?」
「いや、行くよ。三日後に発つ」
「そうですか。そんなに早く」

 多江は少し驚いて言った。
「蔦重の旦那さんが困るでしょう。あなたがいなくなったら」

「何、蔦重はもう見切りをつけてるのさ。もうちっと迫力のあるのを描けないかって言われたが。その実、もう描けねえ、ってわかってるのさ。だからあたしがいなくなったら、内心ホッとするにちげえねえ」
 十郎兵衛は、苦々しげに笑うと多江に向かって言った。
「あんたも一緒に上方へ行かないか」

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 細長い道がどこまでも続いている。道の両側には紫陽花のような青い花が被さっている。前をひとりの女が歩いている。母親のゆらに違いない。追いつこうとするがいくら急いでも追いつかない。いったいどこまで行くつもりなのだろう。

 ゾクッとするような冷たい風が吹いてきて頬をなでる。
「おっかさん」
 声をかけるがゆらは振り向きもしない。ああ、あのひとは、あたしを置き去りにしてどこかへ行ってしまいたいのだ。そうしているうちにいつか母親の姿を見失っていた。
「おっかさん」やはり返事はない。
「どうしたんですか」
 ふと気がつけば、傍らにひとりの男がいた。痩身をかがめるように歩いている、十郎兵衛殿だった。
  ひょろひょろした体の貧相な面相の男だ。人を食った大首絵を描くような男には見えない。むしろ弱々しく、どこかはかなげに見える。うつろな目をまっすぐ前に向け、何かに引き寄せられるように歩いている。着物のすそが割れてパタパタと風に翻るが、そんなことも気にならないようだ。

 「何処に行くんだろう。今度こそほんとに死ぬつもりなのだろうか」
 多江はなぜか、一緒に死んでもいいような気がしてきた。「もう、描けないんだ」と言った男の寂しげな様子を思い出し、心が憐れみの情でいっぱいになる。どうしても放っておくことはできない。

 いつのまにか二人は手と手を取り合い歩いていた。そしていつしか両国橋の手前まで来ていた。柳の木の下のあたりで、多江は立ち止まり喘ぎながら男に言った。 

「もうこれ以上、イッポも歩けやしない。お願いだから、あんた一人で行って」
 男はくるりと振り向く。その顔が怒りで真っ赤になっている。鬼の顔になっている。
「なんだ、一緒に死のうと言ったじゃないか。約束を反故にする気かい。どうするか見ていろ」
 鬼は叫び、多江の顔もみるみる口の両脇が裂けて、目がつりあがり鬼の顔になっていく。裂けていく口を両手で必死に押さえ多江はその場にうずくまる。
「ゆるして、ゆるして」
 地面にしゃがんだまま、涙を流し叫び続けていた。
 ふと気がつけば、頭の上に夜明けの青い光が差し込み、多江はかい巻きを頭の上まで被り声を上げて泣いているのだった。

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 多江はその日ついに決心して、あの男、十郎兵衛の住む長屋に向かった。この場所はいつか話のついでに蔦重が教えてくれた。
「長屋に独り暮らししてるのさ。元々大名お抱えの役者なんだから、もっとマシなところに住めるはずなんだが、あいつはそんなものにちっとも興味がない」
「じゃあ、お内儀さんは」

「逃げちまったって話だけど、よくは知らねえ」
 そういって蔦屋は、煙管の灰をポンと火鉢に落とした。

 長屋の入り口はまだ閉まっていなかった。多江はおずおずと狭い道の中に入っていった。強い日が頭の上に差し、道の上に落ちる陰は黒く濃い

 井戸のそばではおかみさんたちが、ぺちくちゃ、ぺちゃくちゃと永遠に続くかと思えるおしゃべりをしている。きっとお互いに相手が何を言っているのかなんて、ちっとも気にならないのだろう。ただ口を動かす快感に浸りきっているように見える。
 多江は女たちに訊いて居場所を確かめると、礼を言って、背中に女たちの視線を感じながら狭い路地を先へ進んだ。
「戸が外れそうになった家だよ」
 女のひとりが叫び、続けてまわりがどっと笑った。多江はなぜか胸のうずくような感覚におそわれた。

 その家の障子戸は破れて茶色くなっていた。
「ごめんください」
 中から声はしない。多江は思いきって障子戸を開ける。土間の向こうに汚い布団が敷かれ、人が寝ているのが見える。眠っているのかと思ったら、いきなり目を開けた。両目には光がなく腐った魚の目のようだと多江は思った。

 男は横になったまま体を起こす気配もない。なんて情けない姿なんだろう。急に悔しい気持ちが沸き起こり、多江は上から見下ろしながら言った。「起きろ」
 十郎兵衛は驚いたように見上げた。目に一瞬生気が溢れるかと見えたが、やがてすぐまた元のどんよりした顔になる。
 
 ふと布団の傍らに一枚の絵があるのに気がついた。役者の大首絵だ。朽ちて黒ずんだような目、両脇にひん曲がった皮肉でも言いそうな口元。
 写楽の大首絵だった。けれどこれまで見たどの役者絵の顔とも似ていなかった。そして今まで見たどの大首絵よりも気味悪く恐ろしかった。

 
 それは写楽その人の顔だった。それにしてもこんな恐ろしい顔があるだろうか。鈎のようにひん曲がった口もと。深い恨みを湛えたような真っ黒いうつろな目。恨みに我を忘れ今にも鬼に姿を変えようかという風に見える。
「見ろ!」
 写楽は絵を指さし、それから指を自分に向けると激しく笑った。多江は耳をふさぎじりじりと後退する。そのまま土間に降りると、下駄をつっかけ外へ出た。そしてそのまま、後も見ず走って長屋を出た。それが写楽という絵師を見た最後だった。
 
 言問橋を渡ったときには、いっそ隅田川に身を投げて、自分の身をなくしてしまいたいくらい、情けない思いになっていた。橋の欄干にもたれ、しばらく川の流れを見ていたら漸く気持ちが落ち着いた。帰ろう。多江は自分につぶいやいた。

 今ごろ家ではふいにいなくなった多江を心配しているに違いない。ゆらゆらと揺れる透明な水の上に継母のゆらの顔を、そして何の脈路もなく若い彦次郎の顔を思い浮かべていた。

                了


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