玉木屋の女房 12~22
12
蔦屋重三郎の思惑どおり、写楽という絵師の絵は大評判になった。江戸っ子は目新しい物好きだ。これまでの浮世絵といったら、北尾重政の「青楼美人合姿鏡」、喜多川歌麿の「江戸三美人 富本豊雛、難波屋おきた、高島おひさ」などのような、美しくなよやかで、あだっぽい女の絵が主流だった。
そんな中で、写楽の絵の人物たちは美しくも、あだっぽくもなく、むしろゲテモノ、キワモノの類に見えたしある役者の絵などはまるで人生を馬鹿にしくさっているようにも見えた。
中でも度肝を抜いたのは、「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」だった。誇張された表情や、赤く縁取られた目、一文字に惹いた口などあまりに生々しく、極端すぎた。前に突き出された両手はまるで赤子の手のように小さく気味悪かった。
「悪役には違いねえがな、これだけ悪そうな格好にしなくても」
「やれやれ、あの役者も気の毒にな。まるで違った姿に描かれるなんて思いもしなかっただろうよ」
人々はそんな風に噂し合い、まだ見ぬ者はその噂を聞きつけて一目だけでもその絵を見たいものだと思った。流行に遅れては話にならないのだ。
耕書堂の店の者たちでさえ気味悪がったのに、なぜか、あれよあれよという間に江戸中の評判になった。絵師が無名だったことも、流行に拍車をかけ、ますます人々の興味を惹き、毎日店の前には刷り上がった絵を求める人々の行列ができていた。
たまに着流しのような格好で現われて、そんな様子をちらりと見ては、呆れたような様子で立ち去っていく役者風の男がいたが、それが東洲斎写楽その人だと気づく者はいなかった。
彼はただ自分の知っている役者たちの絵を姿をなぞるように描いていたつもりが、いつしか役へのこだわりや、不運、人の心の裏側のおぞましさなどを生々しく描き出すことになってしまった。
そこに、人々は共感し、ヤンヤの喝采を浴びせた。いつしか彼はもう自分が二度と役者には戻れないのではないかという不安を感じた。仮の姿でしかない写楽がいつしか本物の彼を乗っ取っていた。
13
多江はあれから耕書堂に一度も行っていない。また店の奥で、背中をまげて蔦重さんと次の役者絵の相談でもしているかもしれない。きっと、店のみんなにもちやほやされているのだろう。
ゆらに頼まれて近所に届け物をしたあと、急ぎ足で帰る途中で、川のそばを歩いているあの男の姿を見つけた。斎藤十郎兵衛といっていいのか写楽というのがいいのか多江にはわからない。体が前よりも小さくなって、背中はいつもより、よけに曲っているように見えた。
「なあんだ、そんなところで、どうしてるの」
声をかけたのは、その背中になんだか放っておけない切迫したものを感じたからだ。
十郎兵衛どのは、ハッとしたように顔を上げ、多江の姿を見つけるとなぜか急に余裕を出すようにふふふと笑っていった。
「あたしが、てくてく歩いてるのを、ずっと見てたんですかい」
「はい、見てました」
「まあ、恥ずかしいような姿を見られたんですね」
「そうでしょうか。初めて、十郎兵衛様の飾りを取り払った自然な姿を拝見したように思います」
「いつも、あたしは、あたしですよ」
「先ほどのお姿は、十郎兵衛様でも写楽でもなくて、ふわふわとどこかに行ってしまうように見えました」
「どこかって、どこへ」
「わかりません、それであたし、なかなか声がかけられなくて」
「いやだなあ、やっぱりずっと見てたってことじゃねえか」
「いえ、どこに向かわれてるのかなあ、って思って。蔦重さんの店とは反対の方向ですものね」
「いやね、こうやって川のそばを歩いていって、そのうち気が向いたら、飛び込もうって思ってね」
「え」多江は息を呑んだ。
「蔦重のところに行っても、次の絵はまだかって催促されるくらいのもので」
「蔦屋のおじさんも、早く次の絵が見たいんでしょう。うちの職人さんも、一度、大首絵を彫らせてもらいてえもんだ、って。腕が鳴るって。江戸中の人がみんな次の絵を楽しみにしてるんですよ」
「そうかい。あんなもの楽しみにされてもなあ」
写楽はつまらなそうにいった。
「それにでえいち、いくらいわれたってもう描けねえんだ。あれでもうおしまいさ」
どうしていいかわからない多江は、ふふふと、笑ってごまかすようにいった。
「沢山描いたから、疲れてるんですよ」
「もう、どうでもいいや。それに疲れていようが、いまいが、もう、どうでもいいってことさ。さあ、あんたはもうお帰り」
「でも・・・・・・」
「でえじょうぶだって、とびこんだりしないから、ちょっと、あんたをからかっただけだよ。あたしは本職は、役者だからね。さ、さ、もう帰りな、遅くなると家で、おっかさんが心配するだろう」
「じゃあ、約束してくださいね。変な気起こさないって」
「ああ、大丈夫さ、そんなときには、あんたに道連れ頼むから」
「え」 多江が聞き直そうとしたとき、写楽いや十郎兵衛はすでにすたすたと歩き始めていた。
14
川沿いのものがすべて夕闇に溶けていくように見える黄昏の風景の中で、写楽の桃色の着物の裾だけがぼんやりと目の中に入ってくる。
あの人はあたしからは一番遠いところにいる。そう考えるときびすを返して早足で家に向かっていく。
なんで、なんで、なんであたしは、こんなに急いで家に返ろうとするのだろう。そして、どうしてあたしは、あの人をお母さんと呼んでるんだろう。
別にゆらが嫌なわけではない。ただいつから、あの人のことをお母さんと呼ぶのに慣れてしまったのか。それがわからない。あの人に馴らされただけなのか。それともあたしは本当にあの人をお母さんと思っているのか。わからないまま、多江は家に向かっていつか急ぎ足になって歩いていた。
父親が亡くなって暮らしは困窮した。親子二人、数日間、ほとんど何も食べられなかったこともある。そんなある夜、ゆらが多江を道連れに無理心中しようとしたのを知っている。。
ゆらの手が自分の腕を掴み、そしてその手が徐々に首の方に伸びてきた。その時、多江はなぜか笑ったのだ。
ゆらは、はっとして手を離し、部屋の隅まで走って行くと柱にもたれしばらく動かなかった。その後、肩をふるわせ嗚咽した。
作治さんがここに戻って来たのは、その翌日だった。あっけらかんとした顔で、
「おかみさん、またここで働かせてくんねえ。他の店に行ったけど、どうにも性に合わねくてな」
ゆらは青白い顔で立ちあがると、作治さんの手をつかんでいった。
「戻って来てくれたんだね。うれしいよ。あんたがいてくれたら百人力さ」そう言って、ゆらは泣いた。なぜか分からないけれど、作治さんも泣いていた。











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