ツグミ団地の人々〈苦い水 9〉

「そういえば、この前、あんたと横浜の港に船を見に行ったな」
「ああ、おまえが連れて行け、っていったからな」
 なんだ、連れだって出かける仲なんだ。美佐子は思った。
「そこで、僕たちは、大きな船を見た」

「そうだ、ちょうど、イギリスの大型船舶が入港してるときで、おまえが連れて行けっていうからな」
「船を見に行ったのには、実は理由があるんだよ」
 顔が白っぽく見えて目の奥に狂気のようなものが宿っている。皆川のほうは見ずに、平八は妙に落ち着いた声で言った。  
「あんたは確か三十九年か年前にツグミ団地に越して来たんだな」
「あ、まあ、そんなところだな」

「僕がその一年前だから間違いない。その時から、いつか言おう、言おうと思ってたんだよ」
「・・・・・・」
「あんたが、長州出身と聞いた時から、僕の血が騒いだ。そのときからずっと僕の胸にしまっておいたけど、いつか話そうと思ってたんだ」
「平八さん、何を話そうとしてたの」
 タカ子が甘えるような声で言った。平八はそちらを見て一瞬顔をゆるめたがまた、皆川のほうに視線を向けた。

「あの日は天気が良くて、みんなが平和そうに船を見物したり桟橋をブラブラしていたよ。桟橋から真下を見ると海の水はどす黒かった。遠くに目をやるとそちらは明るくキラキラと光ってるのさ。沖合にも帆船のような船が停泊しているのが見えた」
「そうだったな」
 皆川も思い出すように目を細める。
 その日は冬なのに、日差しが暖かくて、犬を散歩させている老人もいたし、大きな腹の妊婦が夫と手をつなぎ幸せそうに歩いていた。

「皆川、思い出してみろよ、百五十年前にあの船の上で、何があったのかを」
「おまえ、アホか。あの船が百五十年前にいたわけがなかろう」「どっちだっていいさ。どっちみち、あんたとは一度決着をつけなきゃいけないんだ」
「彼女への電話を邪魔されたのをよほど根に持ってるんだな」
「君はなんにも知らないんだな。無知とは恐ろしいもんだ」

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