千日劇場の辺り ―千日劇場〈3〉
舞台好きの彼女たちにはそれぞれ好きな役者がいて、追っかけとまではいかないけれど、その熱中の度合いが美佐江の考えではどうにも推しはかれないところがある。主役クラスの役者のファンなら公演が始まれば生活がそれ中心に回り、毎日が喧噪の渦の中となる。人々の熱気で劇場あたりにはむぉおんとした空気がまといつき、街路樹の歩道から商店街、公園、ホテル、地下鉄に入るあたり一帯までがヒートアップして見える。
午前、午後の二回、年齢や境遇もさまざまな女の客たちが身を飾り、連れだって劇場を訪れてくる。ときたま異星人のように若い男がまじり、杖をついた黒いコートの老年の紳士が女たちに囲まれてやってくる。まあ、あくまで例外だけれど。
こんな祝祭日のような晴れやかさが公演期間中つづき、日々生活というものをしながらも片足は劇場の一階、二階、桟敷席からはなれない。白いスポットライトの当たる舞台や、この世と冥土の境目にかかる橋のごとき花道、ミラーボールのちかちか幻惑する光を見なければもう生きてる甲斐もないというように思えるのだ。
通称、化粧前と呼ばれる楽屋で使う小物類のことだが、今かかっている公演では美佐江が縫ってやった。けれど洋裁の腕がもうひとつの上に、発想がおばさん風というか、スーパーの家庭用品売り場にでも並んでそうな代物。木綿のギンガムチェックに申しわけていどにフリルをつけたものだったが、初めてつくったにしてはできが良いと満足していた。
「あなたが和むように、ベージュ色にしたのよ」
得意げな顔で手渡したものだった。
可奈は黙ってうなずいただけだった。普段から口数の多い方ではない。
「ありがとう」
やっと、ひと言言って、去って行く可奈の後ろ姿を見送った。目立たぬ黒のスラックスに黒トックリセーターの可奈は夜の闇に吸い込まれていきそうだった。
公演も半ばを過ぎたころ、
「見ていると、眠くなってしまうの」 ぽつんとひとこともらした。たしかに、ほとんどの時間を楽屋で過ごすのだから、そうかもしれない。美佐江は冷汗をかく思いだった。
まだ半信半疑である。縫ってみようかと思う人は、だいたい特に熱心なファンが多い。その辺を曖昧にしたまま娘のような年ごろの女性たちになじみ、いつしかこんなことまで頼むようになった。どうも縫うという行為ばかりを先行させている気がする。ありていに言えば、Kさんを無理矢理ある場所に追い込んでしまっているようなのだ。ほんとうにこれでいいのか・・・・・・。
若い女性麻子さんと、もっと若い千夏ちゃんは、体をつけ合うようにして並んですわり、グラビア雑誌をながめながら小声で話しはじめた。
あ、この場面はね……。
いいわねえ。
ため息まで聞えそうだ。
この店からは目と鼻の先にある「千年劇場」でただいま上演中の公演の舞台写真を並べたものなのだ。
年上の麻子さんが一枚の写真を指さすと、まだ少女と言っていい年齢の千夏ちゃんが、頬にかかる髪を指ですくい上げるようにして潤んだ目で見つめ何度もあうなずいている。写真の中では黒燕尾と呼ばれる礼装の上下を着た、どこから見ても八頭身はあるこの世ならぬ美しい〝男性〟が眉をきりりと上げて白い肩に薄い紗のドレスの紐を下げた〝女性〟を片方の肩に乗せてまさにリフトしようとする瞬間のものだった。
美佐江はいつだったか、クラシックバレエのダンサーの話をテレビで聞いた。女性バレリーナは男性バレリーナにリフトされるときに負担がかからないように、必死で体重を減らすということだ。千年劇場の男役たちは実は女性だから同性同士でリフトしてるので、もちろんクラシックバレエのように肩の上まで高々と持ち上げるわけにはいかないが、筋肉や骨の太さのこともありかなりの負担だと思うのだ。
彼女たちはそんな様子はおくびにも出さず女らしさを消すためと、黒燕尾を着こなすために、やせて肉も筋肉もそぎ落としたような体で恋人役の娘を愛しげに胸の上に抱き上げ舞台の上でくるくると回ってみせるのである。