ツグミ団地の人々〈苦い水19 了〉 

 杏の花が次々とほころびやがて満開を過ぎたその頃、コーヒーショップつぐみに久しぶりに皆川老人がやってきた。団地のウワサでは皆川はずっと鬱になって引きこもっていたらしい。
 窓辺の席に座って皆川はコーヒーを頼んだ。一度席を立って電話をかけに行ったが、戻って来ると、テーブルの上に湯気を立てて置かれているコーヒーを、ゆっくりと旨そうにすすりはじめた。

 美佐子は熱湯消毒したコーヒーカップを一つずつていねいに拭き上げていった。
「いやぁ、さわやかないい日だ」
 皆川が窓の外をながめながらつぶやいた。わずかな風にも花を揺らす杏を頬をゆるめながら見ている。

 自然の営みは、人間の営みよりはるかに悠々としてあっけない。開ききった杏の花がいつの間にか散り始めている。鶴田平八のかつての指定席は皆川の向かいの曇りガラス越しに日溜まりのできる窓辺の席だった。

 皆川老人は黙ってコーヒーを飲み、新聞をめくり、それからふいにメガネを外して美佐子のほうを振り向き、「トーストを一つ頼むよ」と言った。高い鼻梁の両脇に、くっきりとメガネの跡が残って見えた。
「はい」
 三分後にはチーンと音がして、トーストが茶色に焼き上がった。美佐子はその上にバターを乗せて溶かし、杏と苺のジャムを添えた。それからカウンターの端を持ち上げるとトーストの乗った盆を片手でささげ、席まで運んだ。
「できあがりですよ」

 老人は新聞を横の椅子の上に広げ、いつの間にかうたた寝を始めていた。美佐子は新聞を丁寧にたたむと電話の横に戻した。老人はまだ眠っている。傾いた白髪頭の向こうに、花びらがひらひらひらひらと降りつづけている。傍らで美佐子は、声をかけようかどうしようか迷いながら立っている。
 
 その時、突然風が吹いて半開きだった入り口のドアが開いた。風が店の中になだれを打つように吹き込んできた。皆川が驚いたように顔を上げた。

「風が強くて。今閉めますね」
外に脚を一歩踏みだしたとき、風がさらに強く吹いて杏の花びらがいっせいに舞った。花びらは街路を、ふわりふわり漂いながら左から右のほうへと吹きよせられていく。

 落ちかかる花びらの先に、異形の行列が黒い塊になって近づいてくるのが見た。行列はツグミ団地のほうから湧き出して、アリの群れのように並んでこちらに近づいてきた。

 陣羽織を着て駕篭の中から沿道に鋭い目を光らせる白髪の老人、さっそうと馬にまたがる侍たち、中でもひときわ鮮やかな緋おどしの鎧をつけた若者、その後ろから農夫らしいくすんだ身なりの者たちが荷を担ぎ、車を引き、ワァワァと何か叫きながらついていく。人の通らない歩道のあちら側を、行列は一定の歩調でしずしずと進んで行く。
 ――横浜へ、横浜の港へ。

 列の最後尾を足萎えの爺さんが、両肩を仲間の者たちに支えられながらひょこりひょこりとついていく。その顔はどうも鶴田平八のようだった。
 と、行列は二本の木の向こうにはたとかき消え、街路には花びらだけがひらひらひらひらと舞いつづけている。明るい午後の陽が白い道路上にたっぷり降り注いでいる。
 美佐子が後ろを向くと、皆川もトーストを片手に持ったまま口を開け、びっくりしたように行列の消えた先を見ている。美佐子はまた舌の奥に苦い水の味を感じた。

           了 

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