千日劇場の辺り ―千日劇場〈2〉

 思い起こせば、もう二十年近く前のことである。
「ほんとにいいの」 
 美佐江はまだ疑わしくて念を押すように訊いた。
「いいですよ」
 若い女性、麻子さんはごく気楽に言う。美佐江は下を向きなんとなく細いプラチナリングをはめた薬指に目をやった。

 さっきからどうにもおぼつかない気持ちで二人の若い女性と向かい合っている。ここ何年かの苦労で背中は曲がり、細かいものを見る仕事がたたって目はしょぼしょぼ、まがい物の石のネックレスなどを首に下げた、五十にもなる中年女の相手をしているのはさぞ退屈だろうと同情を禁じ得ない。
 けれど、可奈のためにはどうしても会って話しておかなければならなかった。可奈というのは、美佐江が応援している若い女優のことである。実家が新潟の方にあるので、面倒を見てやる人間が必要だった。
 
 一度楽屋から出てくるのを見て、話しかけた。痩せていてあまりにも頼りなさそうで、それが縁で何かと面倒を見ることになったのだ。今日麻子に会ったのは、楽屋で使う化粧道具用の敷物やカバー、ティッシュケースなどを作ってくれると聞いたからだ。これらは数十日間の公演期間中いつもそばに置かれているものだ。

「こんなものなのよ」
 横に置いたがま口のようなバッグを開けると、プリンターでA4用紙に印刷した写真をテーブルの上に乗せた。
「あ、見るの初めて」
 麻子さんと、もう一人のもっと若い女性千夏ちゃんが、テーブルの上に身を乗り出してきた。
「ふーん。これシルクですか」
「いえ、そんな上等な生地じゃないの。ぺらぺらの化繊のようなものだと思うけど」
 
 麻子さんは熱心にメモを取り始めた。それからたちまち、指先でつまむような小さいペンで紙の上に設計図らしきものを描きはじめた。
「飾りはこんなのでどうかしら」
 ひょろひょろの線がまとまって、バラの花やアラビア風の抽象的な絵柄を描いていく。麻子さんは学校で服のデザインなども学んだその道のプロなのだ。

 可奈に関係した女性たちからは、小泉という名字でなく、友達のように美佐江さん、と呼ばれている。近所の女性たちや、パート先の人たちはだれも美佐江とは呼ばない。奥さんとか、小泉さん、と言われるだけだ。若いころの夫だって、ちょっと、とか、おい、とか言うだけだった。若い娘たちに、美佐江さんと呼ばれる度に、自分が若返って、若い娘の一人になったようで気持ちが弾んだ。

 二人の若い女たちはだいたい二人で話している。気に入りの役者の話で、ときどき思い出したように仕事の愚痴などを言った。二人は同じ会社に勤めているようだ。
「せっかくそんないい会社に入ってるんだからエリートサラリーマンの男を見つけたほうがいいわよ。掃いて捨てるほどいるでしょう、3高の男。早いうちにつかまえときなさいよ」
 今どきだれも使わないような言葉を吐き、
「えー、いませんよ」 と、娘たちの失笑を買う。
「いるけど、みんなダメよね」
「あら、どうして」
 あまりにもさっぱりした口調なのに驚く。

「だって」
「理解なんてしてもらえませんよ」
「そうそう、そうよね」
「そうかしら。言えばわかってもらえるんじゃない」
 二人は顔を見あわせ笑っている。しかたないなー、このおばさん、というように。美佐江もいっしょにつられて笑う。

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