ツグミ団地の人々 〈立春前 6〉
篠崎氏の丸い肩がドアの向こうに消えると、麻紀さんはホッとため息をついた。そして里子のほうに顔を向けて言った。
「さっき車イスに乗るんで立たされたときは、息が止まりそうになったわ」
「すごく痛むの?」
ここのところに、と麻紀さんは脇腹のあたりを指さし、
「鉄の棒が入ってるの。だいじょうぶ、立てますよ、と看護師さんはいうけどね……。あんな思いするくらいな死んだほうがましよ」
吐き捨てるようにいった。その声はいつもの歌うような調子ではなく、嗄れていてどこか悲しかった。ベッドの柵にはピンクの小さいカゴが紐で結びつけられている。それには透明の吸い口が入れられ、底のほうに茶色の液体がたまっている。
「口の中がかわくから、これでしょっちゅう湿らせてるのよ」
麻紀さんは、吸い口を左手でつかみ口もとに当てる。カゴは、手を伸ばしてちょうど取りやすい位置につけられている。麻紀さんはどこにいても、どうしたら便利に過ごせるか工夫できる人なのだ。
里子はそんな心配りからは、逃げてしまいたくなる人間である。新しい電化製品、万能調理器、使い勝手のいい風呂掃除のたわし、そんなものが家を訪れるたびにふえていた。
きっと吸い口は、篠田氏が取り付けたのだろう。妻が使いやすいように、丸い背中を曲げて、懸命にカゴを固定する様子が目に浮かんでくる。吸い口の液体は少ししか残っていない。
「もうあまりないみたい。補充しておきましょうか」
「じゃあ、入れておいてくださる?」
声がやっと歌うようになる。
病室は広く明るい個室で、専用の浴室、トイレも完備している。
「壁に付いてるそのスイッチ押して」
「これ?」
「ドア、開けてみて」
「・・・・・・」
「ね、点いたでしょう
麻紀さんは少々自慢気にいった。
明るい照明の下に、ホテルのバスルームのような洋式トイレとシャワーカーテン付きの浴槽が浮かび上がった。
「まあ、トイレもお風呂もちゃんと付いてるのね。ホテルみたい。だれか泊まっても平気ね
「そうよ。でも手術の夜、夫はお風呂には入らなかったの。外でお弁当を買ってきて食べて、そこのソファに寝たのよ。痛くてたまらなくて、夜中に五十回くらいも起きてもらったの」
「そうなの……。篠崎さんは優しい方ね」
「そうかしら」
「麻紀さんの目の中に妖しい光が宿る。」
麻紀さんはそれから、天井をじっと見つめ、ああ、とため息をついた。
「あたしの人生ももうお終い――たった一度転んだだけで、こんなになるなんて。あれが、悔やまれてならないの」
「ねえ、どうして転んだの」
「どうしてですって・・・・・・?」
麻紀さんの目の奥にまた狂おしいような光が宿る。