玉木屋の女房〈23〉
多江は女たちに訊いて居場所を確かめると、礼を言って、背中に女たちの視線を感じながら歩土間の向こうにいていった。
「戸が外れそうになった家だよ」
女たちはそう言った後でどっと笑った。多江はなぜか胸のうずくような痛みを感じた。
その家の障子戸は破れて茶色くなっていた。
「ごめんください」
中から声はしない。多江は思いきって障子戸を開ける。
土間の向こうに汚い布団が敷かれ、人が寝ている。眠っているのかと思ったら、いきなり目を開けた。目には光がなく腐った魚の目のようだった。
男は生気なく横になっていて体を起こす様子もない。なんて情けない姿なのだろう。多江は上から見下ろしながらなぜか悔しい気持ちになって言った。
「起きろ」
十郎兵衛は驚いたように見上げ、目に一瞬生気が溢れるかと見えたが、やがてすぐまた元のようになってしまった。
ふと布団の傍らに一枚の絵があるのに気がついた。役者の大首絵だ。朽ちて黒ずんだような目、両脇にひん曲がった皮肉でも言いそうな口元。
写楽の大首絵だった。けれどこれまで見たどの役者絵の顔とも似ていなかった。そして今まで見たどの大首絵よりも恐ろしかった。それは写楽本人の顔だった。それにしてもこんな恐ろしい顔があるだろうか。鈎のようにひん曲がった口もと。深い恨みを湛えたような真っ黒いうつろな目。恨みに我を忘れ今にも鬼に姿を変えようかというように見える。
「見ろ」というように写楽は絵を指さし、それから自分を指すと激しく笑った。
多江はじりじりと後退すると、そのまま土間に降り下駄をつっかけると、後も見ずにそのまま家までの道を急ぎ足に帰った。それが写楽という絵師を見た最後だった。
今ごろ、家ではふいにいなくなった多江を心配してるだろうか。そして走りながらふと彦次郎も自分のことを心配してるだろうかと思う。
何の脈路もなく、多江は思う。自分がこの玉木屋の二代目の女房になること。玉木屋の主人になるのはあの若者だ。そんな想像しておかしくなって多江は笑う。あたしは玉木屋の女房。多江は歩きながらいつまでも笑っていた。
了