玉木屋の女房 〈22〉

 多江は、最近いつもあの役者のことを考えている。ボーッとしていて、ふと気がつけば、あの顔を思い描いているのだ。いつかは夢の中で、大首絵の男が絵から抜け出して多江の横に立っていた。悪い男なんだ、と知っているのにそばを離れることができない。
 そんな娘の様子が気になって、ゆらは言った。

「馬鹿なことはしないでね」
 そしてさらに釘をさした。
「あんな男は、あんたのようなやさしい娘の同情を煽るのなんか、得意中の得意なんだから、卑怯な男さ。あんな男についてっちゃ駄目だよ」
 こんな時、継母の言い様はずいぶん意地悪に聞こえる。生みの親が言うならもう少し素直に聞く気にもなるのだろうが。ひと言よけいなことを言えば取り返しのつかないことになる。生さぬ仲の悲しさだった。

  多江はその日ついに決心して、あの男、十郎兵衛の住む長屋に向かった。この場所はいつか話のついでに蔦重が教えてくれた。
「長屋に独り暮らししてるのさ。元々大名お抱えの役者なんだから、もっとマシなところに住めるはずなんだが、あいつはそんなものにちっとも興味がねえのさ」
「じゃあ、お内儀さんは」

「さあ、逃げちまったって話だけど、よくは知らねえ」
 そういって煙管の灰をポンとおとした。

 長屋の入り口はまだ閉まってはいなかった。多江はおずおずと狭い道の中に入っていった。強い日が頭の上に差し、道の上に落ちる陰は黒く濃い

 井戸のそばではおかみさんたちが、ぷちくちゃ、ぺちゃくちゃ、永遠に続くかと思われるようなおしゃべりをしている。きっとお互いに相手が何を言っているのかわからないし、わかる気もないのだ。ただ自分のことを、喋り続けなければいられないのだ。    

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