玉木屋の女房 〈16〉
家の中に入った途端に木の匂いがした。
むっとした木の香りが、鼻についてなぜか嫌なものに思えた。一度通りに出て呼吸を整えると、多江はまた家の中に戻った。
今度は匂いがあまりしなかった。かわって仕事場の方から作治のススッと木を彫る微かな音がする。多江はその音に慣れている。亡くなった父は、玉木屋の職人としての作治の仕事ぶりを褒めていた。「あんないい職人はいねえ」。そして、なんとか他の版元からの頼まれ仕事でなく、玉木屋から青本や黄表紙を出したい、そんな仕事を作治にさせたいと願っていた。
作治が版木を彫る静かで着実な音を聞きながら多江は大きくなった。その音はゆるぎなく微かなぎそれを聞きながら、自分は大きくなった。
静かだけれど緻密で揺るぎない音だった。ふと多江は気がついた。そこに擦るような調子の違う音が混じっている。なぜだろう。
多江は作業場の入り口に立って中を覗いた。
「作治さん」
声をかけようとして足が止まった。作事の背中の向こうにもう一人、うつむいて何か彫っている姿が目に入ったのだ。
多江は、あっと小さく叫んだ。見てはいけないものを見たように思えた。幽霊?
その時、作治の向こうの人が顔を上げた。少年の顔だったとその少年は顔を一瞬じっと見つめ、それから慌てて下を向いた。
作治が気配を感じて顔上げた。そして多江を見つめると、慌てて後ろを向いて言った。
「おい、あいさつをしねえか」
少年はぺこりと頭を下げた。
「こいつは、あっしの妹の子なんですよ。妹が1年前に亡くなったもんで、あっしが引き取って面倒見てるんです。こちらの工房で少し働かせてもらえねえだろうか」
2025-05-15 by
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