ツグミ団地の人々〈レモンパイレディ11〉

今夜も父さんは帰りが遅い。最近いつもそうなのだ。

「きっと仕事が忙しいんでしょう」
母さんは壁掛け時計を見上げながらいう。

「それとも昇級試験の勉強をしてるのかしら」
「そうなんだ、たいへんだね」
 僕はいっぱしの大人のようにいう。母さんはちらっと僕を見ると、
「あんたも大人になって苦労しないように、しっかり勉強しないと駄目よ」
 顔をしかめながらいう。僕もそろそろ部屋に戻ろうと考える。子ども部屋があるというのは本当にいいことだ。

母さんはまた、テープ起こしの仕事に取りかかる。けれど途中でうたた寝をはじめる。パソコンの右手の人差し指がyのキーの上に乗り、画面にはyの文字が宇宙に浮かぶ無数の星くずのように連なっている。
 そして3人か4人かいる会議中の人々は、大きな声で一つのテーマについて話し合っていて、一回りするとまた別の話が始まる。だかが興奮したように司会者の声をさえぎる。すると、またさっきの話に逆戻りする。ぐるぐる回転する車輪のようにいつまでたっても終わりそうにない。この人々は永遠に話し続けているようだった。

「母さん」
 僕が呼ぶと、母さんは、びっくりしたように顔を上げる。
「お風呂入ってくれば。いま眠ってたでしょう」
「眠ってなんてないわよ」
 僕がパソコンの画面を指すと、

「そのようね」
 母さんは照れくさそうに笑っている。
「あなた、先に入ってきていいわよ」
「僕はとっくに入ったよ」
「そうだったわね」
 それからぼんやり立ち上がると当たりを見回しながらいった。
「父さん、今夜は帰ってこないのかしら」

「そんなことないよ。もうすぐ帰って来るよ。それよりお風呂に入ってきて先に寝てれば」
 僕はいっぱしの大人のようにいう。

「そうね、そうするわ。待ってても無駄だものね」

 母さんは、生地のうすくなったバスローブを引っかけ、寒さのせいでぶるぶるふるえながら廊下を通って浴室に行く。僕もやっと解放されて子ども部屋に行く。
 僕はベッドの横の白い壁を見つめながら考えている。大人になるということについて。頭の中では、さっきのテープの声がペチャクチャとしゃべりつづけている。まるでその人たちがこの家の主役で、父と母と僕とはまるで脇役のように。声は大きくなったり小さくなったり、がっかりしたり、何がおかしいのか、いきなり、あはははは・・・・・・と笑ったりしている。 
 それから、隣の家の岡田さんと女の子の人形のことを考える。岡田さんは夜眠るときあの人形を抱いて寝るのかなって。そう思いながらいつか眠りについていた。

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