ツグミ団地の人々〈苦い水 10〉

「だから長州の人間っていうのは……」
「はあぁ、なんだって」
「君がいつか、萩の出身だって話したときから、ああ、長州だな、いつかは言ってやろうと思ってたんだよ」
「待て、待て。萩の出身なのは俺のオヤジだ。お袋は博多で、そういう俺はれっきとした横浜生まれだ」
「だけど、長州モンには違いないさ」

「だったら、なんだっていうんだ」
「百五十年以上も前になるが、軍艦「丙辰丸」の艦上で尊皇攘夷の長州藩士と水戸藩士がある密約を結んだのさ。長州からは桂小五郎、水戸藩からは西丸帯刀なんかがいっしょになって。それは桜田門外の変から四ヶ月後のことであった。成破の密約と言ってだな……」
 そこまで言うと、平八はゴホゴホっと咳き込み大きく深呼吸して水を呑んだ。
「平八さん、大丈夫?」

タカ子が横から心配そうに見つめる。
「もう帰ったほうがいいんじゃない」
「いや、大丈夫だ、これしき。これでも僕は水戸藩士の末裔なんだ。といってもまあ、ほとんど田んぼを作って暮らしてたから半分百姓みたいなもんだったそうだが……」
「さっきから長州だ、水戸だって、あんた、いったいなんなんだ」
「いや、僕はみんなに忘れて欲しくなくて言ってるだけなんだよ。成破の密約っていうのはだね、水戸が反対派の者を斬って世の中を壊し、その後に長州が正しい世の中をつくり上げるというものなのだ。つまり水戸が『破』を、長州が『成』をやるって役割分担したのさ」
「そんなのしらんがな」 
「僕はそれを知ったときは悲しかったよ。なぜ水戸が損な役目の破で、長州がそのあとのいいところを取る成なんだと。僕たちは、いつもそうなんだ。進んで損な役目を引き受ける」

「自慢してるの」
タカ子が訊いた。

「いや、それよりなぜ、僕たちが破で、君たちが成なんだ。僕はつくづく情けないよ」
「君たちって……俺は、なんにも関係ないさ。下手な因縁をつけるのをやめろ」
気がつくと平八は下を向いて泣いているのだった。



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