抜け道 (25)
弟が亡くなって数年たっていた。妻はもう花を育てるのをやめていた。彼が仕事から帰ってくると、たいがい妻は電話の横に座っていて、ときどきため息をついた。夕食の菜はもっぱら母親が作った。魚を扱う時だけ妻がやった葉母親はさわるのも食べるのも魚が苦手だった。
鮎が初めて食卓に乗ったときだった。塩焼きにしたものを彼の前に置きながら、妻はふと思案げな顔を向けた。
「今日も電話をかけてきたわ」
「ふーん」彼はうなずく。そんなことはないだろう。
「あたしが、夕方買い物に出ようとすると、必ずかけてくるのよ」
「そうか
「もう、かけてこないでって、いって」
「自分でいえばいいじゃないか」
「そんなわけには、いかないわ」
「なぜだ」
「あなたの兄さんだからよ」
その途端、彼の箸を持つ手がぶるぶると震えだし、しばらく止めることができなかった。
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いろいろな年齢の女たちがぐるぐると彼の頭の周りを回っていた。下膨れの女や、目をつり上げた女、やせた女、太った女、路地の入り口で見かけたネギの束を提げた女もいた。彼は一瞬体をかたくしたが、それはやがてゆらりと溶けていった。いたずらして母親に手で押さえつけられたように。
翌朝飯が炊き上がると、蓋の裏にたくさんの水滴がついていた。蓋を立てると、水滴がつーっと流れた。妻の涙のようだった。骨になった妻が、ひと晩かけて泣いていたのだ。彼は内蓋の水滴を拭き取ると、白い水気をたっぷり含んだ飯を茶碗によそい、二膳食べた。
(了)
2021-12-20 by
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