抜け道 (5)

 花屋の店先では、女の店員が掃き掃除をしている。
水を張った青いバケツに切り花があふれ、手前のゴミ用のポリ容器の横に、今日も二匹の猫が体を寄せ合っている。ここいらに住み着いている野良猫であるが、一匹は黒と灰色のしま猫で、大人になりかけのところらしくまだ体のつくりがひ弱で、どこか甘えたいような様子がある。
 もう一匹の黒猫の方は、たっぷりした胴の割に四肢は短く、毛羽だったブラシのような毛並みである。

 黒猫は腹を見せてだらしなく寝そべり、ときどきハッとしたように顔を上げて、これだけはきれいな、黄色混じりのトルコ石のような目を周囲に向けている。
 黒猫は以前はよくパチンコ屋の自転車置き場の隅にいて、拗ねたような様子で通る人を見上げていたものだが、しま猫と一緒にいるようになってどこか満ち足りた風である。

 彼が横を通ると、黒猫は半身をもたげて「にゃっ」と鳴いた。彼は呼ばれた気がしてそっちを向いたが、猫はすぐに前足を舌で舐め始め、もう彼の方を見向きもしなかった。数件隣にある古い店構えのパン屋から、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。猫たちはじっとして、鼻先にその匂いを嗅ぎ続けているようだった。
 彼は、パン屋のガラス戸を開いて中に入った。大きなショーケースが店の正面に置かれ、形をそろえたパンが並んでいる。表面に焦げ目のついたのを選んで、いくつか袋に入れてもらった。
 彼はパンの甘いのが好きだ。午後昼寝から覚めた後の口さびしいとき、茶をいれて餡やジャムの入ったのを一つ二つ食べる。気がついてソーセージ入りのも一つ頼んだ。それを猫たちにやるつもりである。

 けれど、店の外に出たとき、二匹はもういなくなっていた。彼は拍子抜けして立ち止まり、少し迷った。このまま引き返してもいいのだが、家で「あら、帰ってきた」という顔に出会うのもなんとはなしに億劫だ。ぶらぶらとパン屋の囲いを周り、裏の方に歩いていった。

 平たいトタン屋根の棟の先に白い砂利の敷かれた庭があり、奥にヒマラヤ杉が数本植えられている。その先は、ひと昔前、深い森だったあたりだ。開発の際、申しわけ程度につくられた小さい市の公園が、手前に取り残されたようにぽつんとある。ベンチと二つだけのブランコ、上に濃い緑の枝が、腕を伸ばしたように差しかかっている。ふいに、みゅう、みゅうと、か弱い声を彼は聞いた。ベンチの下あたりからだ。
 
 かがんでみると、ふわふわした丸い小さいものがいくつか顔を出している。子猫だった。四匹いる。もぞもぞと体を動かし、重なり合い、彼に向かって訴えかけるように鳴き続けている。
 ふいに、しま猫がふわりと身を躍らせて藪の中から現れた。彼を見て威嚇するように鳴いた後、すぐに横をすり抜けてベンチの下にもぐりこみ、子猫たちの背中をざらざらする舌で舐め始めた。ベンチの横に鯖缶か何かの空き缶が倒れている。気がつくと黒猫が、その横をふうふうと落ち着かなげに何度も行き来している。彼は袋からパンを取り出しベンチの上に乗せると、そのままゆっくりと後ずさった。

 公園の裏手の道は、森の方に向かっている。ところどころ両側から葉が被さって、日中もほの暗い。振り返るとベンチも、猫たちもすでに濃い緑の中に紛れてしまっている。彼はそのまま道をまっすぐにたどった。

 しばらく行くと登りの緩い勾配になり、左手の、草の高く生い茂った藪の向こう側は、二十メートル余りの高さのがけになっている。急角度の斜面の横に木々がへばりついて、それぞれ空に向かって梢の先を伸ばしている。
 この前の戦争の時には、ある男が赤紙を握りしめたままそこへ逃げ込み、しばらくの間潜んでいたそうだ。数日後に探し出され、憲兵に引っ立てられ連れていかれたという話だが、その後、男がどうなったかは知らない。

 切り通しを過ぎると道幅が少し広がり、右肩の岩の上に幅五メートルばかりに渡って、無縁仏の墓石が一列に並んでいる。無論、藪に潜んでいた男の墓ではない。
 道は途中から急に下りになり、朽ちた葉の積もる狭隘な道を五分も行けば間もなく駅の裏側に出る。妻はこの抜け道を嫌って、必ずバス通りを回って駅へ向かったものだった。彼も、最近では滅多にここを通らない。膝に持病を抱えてから、彼に駅まで出る用事はなくなった。

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