玉木屋の女房 〈15〉

 すべての色いが淡く夕闇の中に溶けていくようだった。黄昏の中に写楽の着ている桃色の着物の裾だけがぼんやりと目の中に入ってくる。
 あの人は、私からは遠いところにいる。そう考えるときびすを返して早足で家に向かっていく。

なんで、なんで、なぜ自分がこうも急いで家に向かってるのわからないままに。どうして私はあの家に帰るんだ。そしてなぜ私は、あの人をお母さんと呼んでいるのだろう。

別にゆらが嫌なわけではない。ただなぜ自分があの人のことをお母さんと呼ぶのに慣れてしまったのか、それが不思議なのだ。後悔ではなく。単に惰性で呼んでいるだけなのか。それとも私は本当にあの人をお母さんと思っているのか。それもわからないまま、多江はは家に向かって急ぎ足に歩いていった。

父親が亡くなっていっとき母子二人食うにも困るほどだった。本当にどうしようもなくなった時、ゆらが自分と一緒に私を無理心中させようとしたのを知っている。ゆらの手が自分の腕を掴み、そしてその手が徐々に首の方に来た。その時、私はなぜか笑ったのだ。

 ゆらは、はっとして手を離し、部屋の隅まで行って柱にもたれ、それから泣いた。それは私たちが一週間ほとんど何も食べられなかったあとのことだ。
 そしてその翌日、作治さんがここに戻って来たのだ。あっけらかんとした顔で、
「おかみさん、またここで働かせてくんねえ。他の店に行ったけど、どうにも性に合わねくてな」

ゆらは青白い顔で立ちあがると、作治さんの手をつかんでいった。
「戻って来てくれたんだね。大歓迎だよ。あんたがいてくれたら百人力さ」

そういって、ゆらは泣いた。なぜか分からないけれど、作治さんも泣いていた。

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