千日劇場の辺り ―奇妙な案内人〈1〉

 さっきまでの緊張感がまだ頭のどこかに残っていて、もう当分だれの顔を見るのもイヤだ、口も聞きたくない、と思いながら急ぎ足ですべすべした石段を上り地上に出た。

 腕時計を見れば、開演までに二時間以上ある。急にもっと旨く話せば良かった、あ、あれも聞いておけばよかった、と気になってくる。所詮たいした仕事でないのに、襤褸ぞうきんのように疲れ果ててしまうのは年のせい。それと、普段、人の多い繁華街などからは離れた場所にいるのに、こんなときばかりは都心に出て美佐江には、ほとんど異星人のように思える年の離れた女たちと話すことになるからだ。

 劇場周りに漂う空気には情熱とも諦めともつかないものがある。何年か通い詰めているうちに大方の人は時間のパラドックスの中にはまり込んだようになり、自分が現在どの位置似るのか分からないという、一種酩酊状態になる。まるで麻薬のようなもので、一度はまり込んだら抜けられない。
 

 今日とりわけ妙な気分でいるのは、先ほど正木氏に会っていたからでもある。正木氏のちさ子さんも一時舞台役者の卵だったのだが、ある日、

「人前で媚びるようなことはさせたくないんだ」
 そういって、役者を辞めさせ、もともとの志望だった音大のピアノ科に入り直してピアノの勉強をさせた。正木氏は長年クラシックのファンで、バッハのパルティータを娘の弾くピアノで聴きたいという願望を持っていた。


 そういうわけで、紆余曲折があったので、音大を卒業した時には、すでに三十も半ばを過ぎていて、今や父親の夢は千日劇場で娘の弾くピアノを聴きたい、そして劇場を人でいっぱいにしたいという、そういう夢に変わっていた。 

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