玉木屋の女房 〈12〉

「まあ、正直で気立てが良いからって、人気が出るわけじゃないからね。人は悪い者に惹かれるのさ。世間でまっとうと思われてる人に限って、役者としてはどうにも、ってことがあるからね」
 ふと横を見ると多江がぼんやりしている。
「どうしたんだい」
 母親は不安に思って訊いた。

「でもね」
「でも・・・・・・?」
「あの人、怖いような、凄い絵を描くの。蔦重のおじさんは、こいつは、凄え才能の持主なんだ、っていってた」

「そうかい」
「でも、そんなこといわれてもどうってことないみたい。紙をたくさん広げて、顔を付けるようにして絵を描いてるのよ。あたしたちの話なんて何も聞えてないみたいに」
「じゃあ、あんたは、ずっとそれを見てたのかい。つまり、その男、いや絵を。それで、帰りが遅くなったのかい」

「蔦重のおじさんはいってた。見ててごらん、今に江戸中の人が、こいつの絵をほしがるからって」
「そうかい」

 ゆらはため息をついた。蔦屋重三郎がそういうなら、確かなのだろう。死んだ夫が生前口にしていた。
「蔦重は自分の書くものはからっきしだけど、凄い目利きで人にどんな才能があるか、すぐに分かるんだ。そして、何をやらせれば人気が出るかってことも。反対に、できない者はすぐに切り捨てる。俺にはそんな真似ができなかった」
 版元として父親から継いだ家業を傾けたのも、吉原へ通い遊びを覚えたからだけではない。それが、あの人の弱さなのだ。

「それにしてもたいしたもんだね。役者もつとめながら絵まで描こうっていうんだから」
 ゆらは半分意地悪な気持ちで訊いている。多江の顔は相変わらず夢でも見ているようである。
「でも、あの人いってたのよ。―あたしはきっと、役者が嫌いなんですよ。嫌いで嫌いでたまらないんです。だから、こんな絵を描くんです、って。変ねえ」
 ゆらには娘の心をいっぱいにしているその男が、本当のところ、役者なのか絵師なのか見当がつかなかった。

 江戸市中に写楽の大首絵二十八枚が出回ったのはそれから間もなくだった。版元や芝居小屋界隈はその話で持ちきりだった。
「写楽だって。そんな絵師の名前は初めて聞いたよ」

「いったい何者なんだろう」

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