玉木屋の女房 〈11〉
その日も多江は下絵の相談のことで、耕書堂に使い行かされた。ゆらは蔦重が苦手で最近では用事がある度多江に頼むようになっている。日本橋まで大した距離じゃないから、娘でもまあ安心だろう。ところが思っていたより時間が掛かり暮れ六つになっても帰らない。
ゆらは心配になり、何度か店の前まで出ては義理の娘の姿が見えないかと通りに目をやった。
やがて暮れかけた道の向こうからぼんやり歩いてくる娘の姿が見えた。ゆらは走っていって娘の腕をつかむと叫んだ。
「どうしたんだい。遅かったじゃないか」
「あ、おっかさん」
多江がぼんやりした目を向ける。
「心配したんだよ」
「ごめんなさい。なんだか、蔦重さんのところで話してるうちに、なかなか帰れなくなって」
「蔦重さんとかい?」
あんな本にしか興味のない男が、そんなに娘っ子なんかと話し込んだりするだろうか。
「まあ、とにかく家にお入りよ」
店の隅ではちょうど作治が仕事を終え道具を片づけて帰るところだった。
「じゃあ、おかみさん、あっしはこれで」
多江にちらっと顔を向けたのはやはり心配だったのだろう。
家の奥に入って少し落ち着くと、ゆらは多江に聞いた。
「それで、蔦重の旦那さんと何を話してたんだい」
多江は首を振った。
「話してたのは、旦那さんじゃないのよ」
「じゃあ、だれと?」
「いつか話したでしょう。役者なのに、まるでそう見えない不思議な人。役者としては、まるで人気がないんだって。そういえば、変な顔で、だれもあたしの出待ちをしてくれる娘なんて一人もいませんよ。へ、へ、へって笑ってたわ」
「そうなのかい」
ゆらは不審そうに少し紅潮した義理の娘の顔に目を向けた。
「それで、人気がなくて役ももらえないから、毎日蔦屋さんに入り浸ってるんだって」
「まあ、そりゃあ、蔦重さんもいい迷惑だわね。才能がないんだろう、きっと」
ゆらは、自分よりあとに入ってきて、羽振りの良い花魁にまでなった女たちのことをふと思い出した。そして苦い思いで言った。
「気の毒に」
「あの人は正直すぎるのよ」
多江が言った。ゆらは不審に思って義理の娘の顔をしげしげと見つめた。
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