ツグミ団地の人々〈苦い水16〉

「君たちには、まあ、こんな気持ちはわから ないでしょう」
鶴田平八は急に改まった口調で言った。そして、テーブルの上のコップを手にして水をひとくち飲んだ。
「苦いですか」美佐子が聞いた。
「いやあ、苦くはないよ」それから少し考えて平八はいった。
「これ、水道水」
「いえ、富士山の湧き水ですよ。ボトルで買ってるの。内は水だけはいいんですよ」

「そう。今も故郷の人々はいうんだよ。血の臭いがしたって。川の水がね。そんな水、使えやしないって。それもそもそもは、船上の成破の誓いのせいさ。わが同胞はなんでわざわざ損な役目を買って出るかね。良いかっこしすぎなんだよ」
「もういい加減にしたらどうだ。さっきから、ぶつぶつうるさいんだよ
 皆川がカバンから真っ白のハンカチを取り出すと、蠅を払うように顔の前でひらひらさせた。
 平八はかっとなって立ち上がったが、その拍子によろけて転び額をテー部の角にしたたかに打ち付けた。
「大丈夫ですか」
 平八はよろよろしながら立ち上がった。
「ありがとう」
 そして、無言で杖をとると、よろめきながら店の出口に向かった。  美佐子は慌ててカウンターから飛び出すと、老人の前まで行ってドアを開けた。
「ありがとう」

 それからひょいと振り向くと、皆川に向かっていった。
「僕は君を許すことにしたよ。憎しみからは何も生まれないからな」
「な、な、なんだって。だれが許すだよ」
 そういう間にも、杖をついてゆっくり歩いている平八の姿がドアの向こうに消えて見えなくなった。

 その日は結局、午後になっても店の前に陽は差さず、杏の枝がどんよりと重たい陰を歩道に落としていた。

by
関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です