午後のサンルーム(7)

 年中旅行して歩いている女がいる。

 善光寺というのが甲斐にもあるのを知ってるか、とその女はいった。女は長年高校の教師をしていて、ちょっとしたインテリでもあった。
「数年前、そこへいくことになって・・・・・・」女はつばを飲み込んで話し続けた。

信玄さんは、信濃国の善光寺がうらやましくて、戦のついでに、寺にあった仏像なんかをみんな、自分の国に持っていってしまったのよ。戦火から守るって名目で。ヨーロッパにもそういう話があったでしょう。ほら、ルーブル美術館かなにか」

 女の話は西洋のことになるとだいぶ怪しくなるのだった。

「英雄とか、征服者っていうのは、所有欲が並外れた強い人たちのことなんでしょう。それで、つまらないいいわけをするのが可愛いといえば可愛いけど、コワさでもあるわね」
 もうひとりのインテリ女が、メガネを光らせながらいった。元教師の女はかまわず続けた。

「そこの宝物庫に入ったのよ。ひと通り見て歩いたの。ひと通り、ケースの中の仏像や古文書なんかを見て歩いて出口近くまで来ると、隅っこに 小さくていじけた妙な木の塊があった。そこに、ご丁寧に小野小町』って書いてあった。顔も体も崩れ果てた醜い老婆…・・・。なんだか男の悪意を感じたわね。

「卒塔婆小町だわね――」
 もうひとりのインテリ女が低い声でいった
「女どもよ、よく見ておくがいい」
「しかし、美人のなれの果て、ってのも、なかなか風情があるかもしれないな」
 磯野がいった。
菊江は少し前、手洗いに立ってまだもどっていない。妻が横にいないと、磯野の口はよけいに軽くなるのだった。

「とにかくあたしはそれを見たとき、とてもいやな気持ちになったのよ」
 女は実は恐ろしかったのだ。そして、その感覚が自然にまわりに伝わり、女たちはしばらく無言のままだった。

 恵子は思った。あれはだれと行ったのだろう。かつて住んでいた街に、新しく能楽堂ができて、そこで「山姥」を観たのだった。
 ひそひそとした音のない会話が会場内を充たしていた。始まる直前に彼女の横の通路を一人の女が急いで通り過ぎ、三列ほど前の席で立ち止まると、体を横にして自分の席にようやくたどりついいた。その女が座ると、すべての物音が消えた。

 「あら物凄の深谷やな
   寒林に骨を打つ」

 「花に春香
 月にかげろう」

 「よし足曳きの山姥が
 よし足曳きの山姥が
 山廻りするぞ苦しき」

                     (浪曲「山姥」から)

高い木々の屹立する幽谷の奥深くを妄執に狂う一人の女が駆け抜ける老いた苦しそうな姿が、鮮明な映像となって今も恵子の頭の中に浮かび上がる。
 どれほどのもの凄さなのか。そして、世俗の人間に名残を惜しみ、去って行く女の孤独はどれほどのものなのか。それを考えるといつも、苦しい気持ちになるのだった。

 自分たちは、そんな恐ろしげなものを見ずに済ませられる。まだ若いころの恵子はそう思った。そして今は、背中の上に日に優に被さってくる恐ろしげな顔をしたものに気づかないふりをしている。

 気がつくと、菊江が窓の前に立ち外を見つめていた。恵子は、菊江が話をみんなの話をまったく聞いていなかったのに気がついた。
 青空の真ん中に白い小さな雲が浮かび、光りが中をすり抜けて地上に落下している。その遙か先には入り江の海が青く広がっている。菊江は、そちらを放心したように見ているのだ。

 菊江は振り向くと、「暑いわね」といった。
 それから着物の衿前をぐいっと手で広げ、持っていた扇子でぱたぱたと顔をあおいだ。そのときに胸元に巻いた黄緑色のスカーフが見えたのだが、それが、亡くなった佐々木シズ子のしていたスカーフのようで恵子は息をのみ、
「菊江さん、それ・・・・・・」
 聞こうとしたとき、磯野が厳しい目でこちらを見ているのに気がついた。濃い眉の下の目はまるで怒っているようだった。けれど気がついてすぐに愛想笑いに変わり、席を立って二人のそばまできた。それから、
「さあ、帰ろう」
ささやくようにいって菊江の手をとり、並んでエレベーターの方に歩いていった。

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