抜け道 (16)

 玄関に入ると、下駄箱の上に見慣れたチラシが二枚重ねて置かれていた。遠藤菊子がすぐに出てきて、オーバーに顔をしかめていった。

「お留守のうちにきて、置いていったんですわよ。さいきん、このテアイが多いですからね。一人暮らしのお年寄りと見ると、声をかけるんですわ。十分用心なさるといいですよ」
 彼は額に汗の玉を浮かべた。信用金庫の男の若々しい顔を思い浮かべた。

 この暑いのにご苦労なこった。そう思った途端、彼はその男のためにいくばくかの金で、口座をつくってもいいような気持ちになっていた。むしろそうしなければならないという気持ちになった。

 表情の乏しい若い男の顔が、一瞬だけ明るく輝く様を彼は思い描いた。久しく忘れていたある種の感情が、ふつふつと小さな泡のように心の奥底にわいて出た。それは少々甘く心をくすぐるが、すぐにでも消えてしまうほど他愛ないものであった。

 青年は彼の家にやってきて、玄関に立ち、彼の手を取らんばかりにして礼をいうだろう。けれど三日もしないうちに忘れてしまうだろう。黒いカバンにタオルやチラシや団扇を押し込み、額に汗をかきながら青年はまた別の年寄りの家を訪ねるだろう。その若々しい手は、少し迷った後でその家の簡素なブザーに伸びるだろう。

「まあ、炊飯器を買ってらしたのですね」
 遠藤菊子が、目を見張っていった。
 彼は靴を脱ぎながらうなずくと、包みを提げて廊下を通り茶の間に入った。そのまま箱を障子の横に置いて小用を足しにいった。電器店にいた頃からだいぶ我慢していた。

 手を洗って戻ってくると、炊飯器が茶の間の座卓の中央にきちんと据えられている。縁側から見ると、よしずを通して薄められた明かりの中で、それは箱に入った骨壺のように見えた。箱から出すと、炊飯器はまるでおもちゃのように小さかった。

「ちょうどいい大きさですわね」菊子は頷いた。
「さっきから、もう帰ろうか、どうしようか迷ってたんですよ。このまま開けて出るのは不用心ですし・・・・・・」
「盗まれて困るものなど、何もないよ」
「でも、やっぱり、そういうわけにはいきませんよ」
 それから彼の顔をじっと見ていった。
「ご飯炊きましょうか」
「いいよ、自分でやる」
「そうですか」
 ホッとしたようにいって、そそくさと帰り支度を始めた。
「ほんとに、おきれいですこと」
 帰る間際に、また妻の写真を見上げていった。

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