ツグミ団地の人々〈苦い水2〉

 そのころ、ひとりの老人がコーヒーショップつぐみに向かっていた。老人は鶴田平八といい、ツグミ団地と県道にはさまれた三角土地に立つ一軒家に妻と二人で住んでいる。
 鶴田平八はいつもは人のよい老人であったがその日は少し機嫌が悪かった。というのは、たった今、病院に行って診察券を置いてきたのだが、時間になったらまた病院に行ってさらに一時間は待つという予定があったからである。

  茂ったシクラメンの鉢を杖で邪魔そうに叩いて通り抜けると、平八は勢いよくコーヒーショップつぐみの扉を開いた。
 八十も半ばにさしかかる年齢だがおしゃれで、ハンチングをかぶり、起毛のすり切れた昔は上等だったと思えるツイードの上着を着ている。首には女物らしい絹のスカーフを巻いている。

杖をついて、ひょろひょろと揺れながら店の中程まで歩いてくると、美佐子に向かって片手を上げた。お公家さんのように上品な顔である。
「いま、病院に診察券を出してきたところなんだ。まともに歩くこともできないんだから仕方ない」

「無理しないほうがいいですよ。毎日わざわざ来ていただかなくても」
 美佐子は眉根を寄せ心配そうな顔でいった。

「ここに来ないと、一日が始まった気がしない」
 そういうと、奥のボックス席に座った。
「コーヒーね」

「わかりました」
 それからちょっと照れくさそうな顔で、「ホットケーキ」といった。
「パンケーキですね」美佐子は念押しした。
 この店を始めて以来、「パンケーキ」は店の人気メニューのひとつなのだ。鶴田平八は鷹揚にうなずくと、持っていた新聞をパラリと目の前に広げた。

 何を熱心に見ているんだろう? そう思ってコーヒーを置きながら何気なく覗くと、見ているのは新聞の人生案内であった。
「私も、よく読むんですよ。人生案内」
 後ろから、美佐子は大きな声で言った。
「わしは、もう自分の悩みは、なしにしたんだ。そう思ってみると人の悩みというのは大方どうでもいいのが多い。だいたい人生ここまで生きてきて、今更悩みなんてないだろう」

 美佐子が下を向いたのは一寸笑ってしまったのをごまかすためだった。店に来る度、平八は妻が口うるさいとこぼしているからだ。

 店の中にパンケーキの焼ける甘い匂いが漂って、平六もちょっとソワソワする。やがて生クリームを乗せ、メープルシロップの入った小さい陶器を添えてパンケーキが、フカフカと湯気を立てて運ばれてきた。
「お待ちどおさまでした」
「おお、これはうまそうだ」
 平八は鼻をヒクヒクさせた。

「どうぞゆっくり召し上がってくださいね。他にお客はいませんから」
「じゃあいただくとするか」

 新聞をたたんで隣のいすの上に置くと、ナイフとフォークを手に取り、ゆっくりと切り分けて食べ始めた。
「ああ、そうだ、シロップを」

「バターも広げてくださいね」
「はい」
 鶴田平八は小学生のように言うと、ケーキの上にバターを広げ、しゅるしゅると溶けるのを確かめてメープルシロップをたっぷりかけた。
 そして丁寧に切り分けたのを、口に運んでパクパクと食べた。
「おお、これはうまい」
 そう言って平八は食べ続けた。こんな幸せがあるだろうかと平八は満足した。

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