ツグミ団地の人々 〈小鳥が逃げた 4〉

 夫の茂夫と離婚したのは奈々が小学校に入学する少し前のことだった。
 茂夫は車が好きで、チェックの上着に白いズボン、先の尖った履を吐いているような軽薄な男で、父親譲りの輸入会社をやっていたが、景気の良いときばかりではないのに、いつも派手な生活ぶりを変えないのでよく美佐子とけんかになって暴力をふるった。

 そんなあと、1月も戻らない日が続き、ああ、もう帰らないのだな、と思った。どうにか娘と二人で暮らしていく手立てを考えなければならない。
 そんなある日、夫から連絡がきて、今週末、いったん家に帰る、と言った。
それを聞いて美佐子は息がつまって、ろくに返事もできずにいた。週末にあの人が帰ってくる。電話を置いたあともしばらくそこを動けなかった。茂夫は、すぐに切れて妻に暴力をふるう夫だった。

 その翌々日の深夜、また電話がきた。
「奈々を電話に出せ」
「なにを言ってるの。こんな遅い時間に」
「バカ野郎、父親が娘の声を聞きたいって言ってるんだよ」
「もうとっくに寝てるわよ」
「いいから出せって言ってるんだ。ぐずぐず言うな」
 どうやら飲んでいるらしい。ろれつの回らない声が耳の奥にぶんぶん呻っているように聞こえて、美佐子は恐ろしくなって受話器を置いた。

 それからも、十回ぐらいは電話のホーンが鳴ったが美佐子は受話器を取らなかった。しまいには布団でくるんでグルグル巻きにしておいた。美佐子は汗をかいていた。それから缶ビールを開けると少し飲んで奈々の横の布団に寝た。娘は平和な寝息をたてていた。 

 週末、何もいわずにいきなり茂夫が鍵を開けて家に入ってきた。
玄関に出ていた娘を、そのまま抱き上げ、連れて行こうとするのだ。美佐子は必死になって、奈々を引き離しそうとした。
 そのとき、どういうわけか夫のメガネがぽとりと床に落ちた。メガネを取ろうと屈んで、腕をゆるめたスキに夢中で娘をうばって抱え、そのまま隣の家に駆け込んだ。「助けてください。助けてください」もう必死だったのだ。隣の家の老夫婦は何が起こったかと思ったようだが、取り合わず中に入れてくれた。
 それから奥さんが怖そうな顔で聞いた。
「泥棒が入ったの」
 それから、何か事情があると思ったかそれ以上は言わずお茶を入れてくれて、娘には甘納豆を出して食べさせてくれた。
 ずっといたらどうしようと思ったがほどなくして夫は帰り、間もなく少しホッとするのだった。

 メガネが落ちたお陰で娘は連れ去られずにすんだ。なぜメガネが落ちたのかが不思議だったが、あとで聞いた話しでは、奈々が手をのばしてメガネをはらい落としたらしい。
 相手はどうしても離婚に応じずにいたが、一年後にやっと調停で離婚という運びになった。裁判所でいきなり、

「結婚指輪を返してくれ」
 と言い出し、「今はここにないから、あとから送ります」と言うと、「おい、ほんとはおれと別れたくないんだろう」と言う。
「この期に及んで何を言出すのだろうと、びっくりしたわね」と、あとで美佐子は店の親しい客に話した。

「調停員のひとが、「あなた、その指輪はもうあげたものでしょう。今さら、あげたものを返せなんて、そんなことは通りませんよ」
 そう言って、美佐子は今でも指にはめているその指輪を見つめた。
「ほんとは、未練があるのは貴女のほうなんじゃないの」

 客は言い「まあ、何をいうの」美佐子は顔を赤らめ本気で怒った。そんな指輪をいつまでも指にはめているのも美佐子の心の闇といえるかもしれない。

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