ツグミ団地の人々〈苦い水17〉

 その日、皆川は開店早々から、カウンターの一番奥に座っていた。なんとなく憂鬱そうな顔である。
「どうかしたんですか」美佐子は気になって声をかけた。
「さあ、ねえ」 皆川はそう言って、彼の膝の上で喉を鳴らしている猫の耳から首のあたりまでをなでている。猫はもう半分目を閉じている。

 そして、一口水を飲んだあと、コップを蛍光灯の明かりに透かししげしげとながめている。どうということのない普通の水だ。
「妙だなあ」
 皆川は首をかしげる。
「これ、どこの水? ちょっと苦いんだけど」
「え、あなたもですか。変なこと言わないでくださいよ。煙草の吸いすぎのせいじゃないですか。自家製の濾過した水ですよ。それともカルキが強すぎるのかしら」

「え? 水道の水飲めるんですか。飲んじゃいけない、ってみんないってますよ。なんか、腐ってるそーですけど」
 横のテーブル席で雑誌をめくっていたタカ子が顔を上げる。

「東京の水はだめらしいけど、ここの水はいいんだよ」
 皆川は、言い聞かせるようにやさしく言った。
「すぐ、隣じゃないですか」
「ほら、ここは山に比較的近いだろう、水の出所が違うって言うか、水源が違うわけだ」
「あたし、ほんと、ミネラルウォーターしか飲めないって思ってました。でなきゃ、南アルプスの天然水とか」
「相模湖とか相模川とか、それに酒匂川とかあるだろう。酒匂川の水は澄んだいい水なんだよ」

「そうなんですか」
「そうなんだよ」
 皆川は満足そうにうなずく。 

「酒匂川には、若い頃よく鮎釣りに行ったものだ。澄んださらさらとした流れだけに、中心部分の青さが際だって見える。なるべくそのあたりまで行くんだ。そして、膝から腰のあたりまで水に浸かって、生きたおとり鮎をつけた釣り竿を上流から下流に向かって横に動かすのさ。まるで鮎がほんとうに泳いでいるように。鮎は鼻っ柱が強いので、自分の縄張りにほかの鮎がきたと思いこんで攻撃して、仕掛けの針に体をひかけてしまうのさ。釣った鮎は恨みがましい獰猛な顔をしていたな」

「そういえば、この前、鶴田のおじいちゃんが、川にたくさん人が浮いてたっていったわね。きっとみんな恨みがましい顔をしてたんでしょうね」
 その言葉に思わずギョッとして、皆川と美佐子はタカ子のほうを振り向いた。
「そういえば、最近鶴田のおじいちゃんこないね」
 美佐子はぼんやり、壁に掛かった富士山の絵の付いたカレンダーを見る。鶴田平八はもう1週間も店に姿を見せていなかった。

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