眠り草 (8)

 コツコツと硬い音がして、廊下の奥から小さな老女が杖をついて近づいてくるのが見える。杖は先端が細い。上端にかぶせるように掌を乗せている。
 小さい老女は杖を宙に浮かすと、曲げた腰をのばしその先端をこちらに向けた。まるで杖で人を威嚇しているように見える。髪はまっ白だった。老女は、とがったきつすぎる目で聡子をじっと見つめた。

「おや、新入りさんなのね」
 聡子はていねいに頭をさげた。家政婦をしていた聡子にとってなんでもない仕草だった。
「岡と申します。どうぞよろしくお願いします」
「そう、岡さんね。昔、わたしにも岡さんという友達がいましたよ。まだ小さいうちに、海で溺れて死にましたけど……」
「まあ、そうですの」
 聡子はいやな顔もせずにこにこと笑っている。見る人が見ればそれは彼女が以前していた職業的な仕草に過ぎないとわかるだろう。
「あなたもかわいそうに。家族にこんなところに入れられて」
 老女は陰気な顔でいう。
「あら、あたくし進んでここにきましたのよ」聡子はけろりとした顔でいった。
「それは、結構ですね」
「ここは『幸福の家』と呼ばれていると聞きました」
「『死の家』と呼ぶ人もいますがね」
 老女は薄い唇の端を持ち上げて笑った。
「市川さん、そこまでにしてください。これから岡さんをお部屋にご案内しますので」
「はい、はい、わかりましたよ。どうせあたしは嫌われ者ですからね。いわれなくても間もなく退散しますよ」
 
 市川さんと呼ばれた老女は杖をついてよちよちと自動ドアのほうに向かっていく。佐々木マネジャーがそれを追いかけていく。
「あまり遠くまで行っちゃだめですよ。夕食の時間に遅れないでくださいね」
「はい、はい、ちゃんと聞こえてますよ。そんなに大声で怒鳴らなくたって」
 それから、と佐々木マネジャーは老女の背中にいう。
「猫にエサをあたえないでくださいね」
「あたし、猫なんて大嫌いよ」
「なら、けっこうです」
 聡子は、佐々木さんのほうへ顔を向けた。
「猫がいるんですか。あたくし大好きなんです。よく動物を置いている老人ホームがあると聞きますけど、ここもそうなんですか」
「いいえ、違います」佐々木マネジャーはきっぱりという。
「動物は好きなかたも嫌いなかたもいますから、こちらではそういうことはしていません」
「そういうこと?」
「良いとわかればするんでしょうが、それが皆さんの心理によいかどうか、まだ確かめられていないってことです」

 市川さんがいきなり腰をまっすぐに立てて、杖の先端をこちらに向けた。弓よりも曲がっているほどだった腰が、ぴんとまっすぐになったのに聡子はどぎもを抜かれた。「偽善者め。面倒なことをするのはイヤだと正直におっしゃい」
 佐々木マネジャーは、突きつけられた杖にぴくりともせず微笑んでいる。
「市川さん、日が暮れてしまいますよ。出かけるならお急ぎください」
「あら、ホントだ。あなたに引き留められてすっかり遅くなっちゃったわ。やれやれ、いつもこうなんだから
 市川さんは、ぶつぶついいながら杖をついて自動ドアから外に出て行った。

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