グリーンベルト(33)

 運転席に再び体を押し込めながらヘレンは言った。
「半年前に倒れて、それから少し痴呆が始まったみたいなのよ」

 先ほどの食事の際ボブさんがおどけた顔で、テーブルの上にこぼれたコーンチップスの一片を何度も〝チョップスティック〟の先でつまんでみせたのを私は思い出した。日本にいた頃は、いつも謹厳な顔で、話しかけるのもためらうほどだったのに。
 
ボブさんはふくらんだ背中を丸めてポーチに向かい入り口のドアを開けて、そのまま家の中に入っていった。室内の弱い明かりが上体を折ったボブさんの痩せた長身を浮かび上がらせていた。

 帰りの地下鉄の中はさらに人が少なかった。ワシントンD.C.くらい安全な街はないとは言え、女三人がホテルに帰るには遅すぎるくらいの時間だった。                      「ずいぶん人が少ないのね。それにどちらかっていうと、地下鉄の乗客は貧しい人ばかりじゃない? アメリカが貧しいわけじゃないでしょうに」
 葉子さんが周りに視線をそっと這わせながらいった。

「あたしたちが、とやかく言えることじゃないでしょう」
 それまで腕組みして目を閉じていた君江さんが急に目を開けて言った。
「とやかく言えることじゃないでしょう」
 その言葉は、暗い車内にびっくりするほど大きく聞こえた。それからは三人とも無言になった。
 
 私は、先ほどヘレンにもらった聖書について考えていた。
「(主)は寛容にして、慈悲あり」。コリント書の何章か。
 でも私はこの言葉をすぐに忘れてしまうにちがいない。それにヘレンは天国で会えると言ったが、そんなことを本気で信じているのだろうか。

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